彼はどうやら鬼化前もそれ以降も、無限城での戦いに至るまでに、「死者の魂」や「死者の精神」を近くに感じたことはなかったようである。鬼化後に記憶の重要な部分が欠けていたことも影響している。
自分の生死にはまったくこだわりを示さない猗窩座が、不死に執着し、鬼化を素直に受け入れた要因は、「家族との別離」のトラウマにあると推察できる。猗窩座は「大切な他者(=家族)」が生きていること、死なないこと、肉体があること、そばにいることに強いこだわりを見せていて、それこそが煉獄とは対照的な部分である。
対照的な2人の言葉
猗窩座と煉獄は、2人とも同じように片方の親を病で亡くしていながら、その後の戦いの対話の中でも、彼らの死生観はまったく交わることがなかった。
なぜ猗窩座は、炭治郎と義勇には共感を示し、煉獄の心に同調する様子を見せなかったのか。同じ事象を経験しながら、彼らの心に呼応し合うものはなかったのだろうか。これが「無限列車戦」「無限城戦」の興味深い点であり、謎を含む部分でもある。
ここで、無限列車の死闘の際に交わされた、対立する彼らの言葉を振り返ってみる。
猗窩座「この素晴らしい剣技も失われていくのだ 杏寿郎 悲しくはないのか!!」
煉獄「誰もがそうだ 人間なら!! 当然のことだ」
(猗窩座・煉獄杏寿郎/8巻・第63話「猗窩座」)
猗窩座「生身を削る思いで戦ったとしても 全て無駄なんだよ 杏寿郎」
煉獄「 俺は俺の責務を全うする!! ここにいる者は誰も死なせない!!」
(猗窩座・煉獄杏寿郎/8巻・第64話「上弦の力・柱の力」)
これらの言葉は、彼らの死生観の違いが如実に表れている箇所であるといえよう。
■彼らが見つめた「異なる未来」
極めて対照的なのだが、煉獄の場合は自分が炎柱として他者を守り死ぬことを「自らの責務」であると述べている。亡き母との約束は「炎柱として生きること/死ぬこと」であり、そこには彼自身の死の覚悟が含まれていた。そのため、煉獄が見つめる自分の未来には「死」があり、そこに「亡き母の心」がともにあることを煉獄は確信していた。
実際、煉獄の死の場面には、「立派にできましたよ」と微笑みながら迎えにくる母の姿が描かれている。死はすべての人に訪れるものである、だからこそ、どのように生きるのかを考え抜く、それが彼の母の教えであった。
一方、猗窩座の父は、狛治の「人並み以上の強さ」を感じ取りながらも、息子が特別な偉業を成し遂げることよりも、自分がいない世界で、息子が幸せに生き続けることを願った。それが父の遺言だった。
死に救いがあるということを、狛治は誰からも教えられることがないままになった。死者の心が生者のそばにあることも、彼は知らぬままだった。そのため、彼が希求し続けたのは「大事な人が生きること」であり、死は「悲しみ・孤独・無・停止」という理解になった。
煉獄の清廉な人柄が猗窩座に届かなかった理由は、「大切な人の死」を必然として受け止めようとする煉獄の「強さ」が、猗窩座とは合わないものだったからであろう。死なないでくれ、という狛治の願いは、鬼・猗窩座になってからも消えない。死の不可避性を説く「強い」煉獄の言葉は受け入れがたいものだった。
そして、猗窩座が共感したのは、愛する人たちとの日々を取り戻したいとあがき続け、涙を流し続ける、炭治郎と義勇の「弱い心」だった。
《新刊『鬼滅月想譚 ――「鬼滅の刃」無限城戦の宿命論』では、猗窩座と冨岡義勇の戦いの宿命についても詳述している》
