
「劇場版『鬼滅の刃』無限城編 第一章 猗窩座再来」が18日に公開され、「無限列車編」以来の盛り上がりを見せている。前作では炎柱・煉獄杏寿郎と上弦の参・猗窩座との戦いの中で、死生観の決定的な違いが浮き彫りになったが、2人には“共通点”があった。
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新刊「鬼滅月想譚 ――『鬼滅の刃』無限城編の宿命論」を著した植朗子氏は、無限列車と無限城の戦いを通して、2人の戦いの因果を紐解いている。同書から一部を抜粋変更してお届けする。
【※以下の内容には、既刊のコミックスおよび劇場版のネタバレが含まれます。】
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■「不治の病」の家族を持つ子どもたち
『鬼滅の刃』に登場するのは、鬼も人間も、苦難に耐えて生き抜こうとした者ばかりだ。彼らは悲しみに突き動かされるように、運命にあらがい、戦いに身を投じてきた。鬼殺隊と鬼との「戦いの組み合わせ」には、彼らの半生の辛苦が対比構造をもって投影される。
無限列車における炎柱・煉獄杏寿郎と上弦の参・猗窩座との対戦にも、必然性が含まれていた。彼らは「不治の病に冒された家族がいた」という点で共通しており、これは煉獄にとっては大切な母のことであり、猗窩座(=人間時代の名:狛治)にとってはかけがえのない父のことである。
当時、まだ子どもだった煉獄も狛治も、死が差し迫る親のそばで、子どもらしい甘えも、寂しさも口にすることをしなかった。病の本人こそが誰よりもつらい思いをしているということを幼いながらに分かっていたからだ。
「強さ」とは何か?
戦いの中で、「強さというものは 肉体に対してのみ使う言葉ではない」(8巻・第63話)と口にする煉獄に対して、猗窩座は肉体の永遠性の価値をどこまでも主張し続ける。
猗窩座が「不滅の肉体」へのこだわりを口にし続けたのは、「武の高み」という視点からのみ発したのではなく、病による父の身体的苦痛をすぐそばで見続けていたからだろう。
猗窩座は大切な人たちが死んでしまうこと、つまり彼らの肉体が自分の手の届かないところにいってしまうこと、つまり「別離」を何よりも恐れており、その意識は鬼になってからも変わらない。