今の気持ちで、しっかりと昔を振り返れば、未練は徐々に減っていくと思います。強引なたとえですが、子供の頃優しかった近所のお兄さんが、大人になってから、セクハラの常習犯だった、友達が被害者で泣いていたと知った、なんてことです。今の気持ちで、優しかった日々を思えば、未練はやがてなくなるでしょう。

「情けなさ」は、感じる必要がないと思います。だって、エリザベスさんは決断したんです。もう、前向きに歩き始めたのです。「情けなさ」と向き合う必要はないでしょう。

 これも強引なたとえをすると、ダイエットにずっと失敗していた人が、ようやく運動や食事制限を始め、定期的な運動も続いているし、食事制限もうまくいっているのに、昔の「ダイエットを失敗していた時期」のことを情けないと向き合う必要はない、ということです。
 

「私はこれから、どうすれば本当の意味で自由になれるのでしょうか」とエリザベスさんは書きます。

 エリザベスさん。自由というのは、「自由という状態」があるのではないと僕は思っています。自由は「自由であろうとする持続的な運動」のことだと思っているのです。

「私は自由だ!」と叫んだだけでは、自由ではない。自由であり続けようと努力するからこそ、自由になれるんだということです。

 エリザベスさんは、今、自由です。それは、「感情のゴミ箱」にしようとする母親ときっぱりと線を引こうと思って努力しているからです。

 その努力が続く限り、エリザベスさんは「本当の意味で自由」だと思います。

 エリザベスさんは、何も間違っていない。大正解です。その決断は正しい。応援します。がんばってください。

 エリザベスさんは自由なのです。
 

こちらの記事もおすすめ 「大好きな祖父母を嫌いになりそう…」介護と生活の両立で悩む女性に、鴻上尚史が示した未来のための選択肢
[AERA最新号はこちら]