日本のそれと比べれば、極めて原初的な生活と風景である。しかしなぜか、心細く不安な気持ちになることはなかった。シンプルであるがゆえの力強さと、いつもそこにあるニジェール川のめぐみが、私にそう感じさせたのかもしれない。

 ニジェール川がもたらすめぐみは、水だけではなく、水路としても長く機能してきた。ギニアの水源からマリ、ニジェール、ベナンを経て、ナイジェリアのギニア湾に注ぐこの大河は、古の時代から、人と物の流れを助けてきた。今も、船の往来が途切れることはない。

 ニャフンケを発ってからモプチに着くまで、昼も夜も、周囲に船の姿を見ないことはなかった。個人所有の小舟から、漁船、資材運搬船、大型客船まで、なんらかの船と常にすれ違い、並走し、追い抜き追い抜かれ続けた。自動車が一般的な輸送手段となった現在でも、水路としてニジェール川がこれほど利用されていることは、私には意外な発見だった。

 私たちが乗船船の持ち主である船頭のアラサンさんは、大型客船で荷物の担ぎ手として働きながら、船の扱いとニジェール川の航行の仕方を学び、この船を買って独り立ちをした。以来、マリの首都バマコから同国東部の町ガオまでの間を、荷物を乗せて行き来している。

 船にエンジンを載せたのは、実は数年前のことだという。それまでは1000キロメートルを軽く超える距離を、竿1本で行き来していたらしい。

 船には、長男と次男が乗船していた。ふたりとも、エンジンの出力を調整したり、交代で舵をとったりと、寡黙に仕事をしていた。子どもたちが進んで船の仕事を手伝ったのか聞くと、アラサンさんは「今でもグチばかり言っています。若者というのはそういうものですよ」と言いつつも、どこか誇らしげに見えた。

 マリ北部の紛争でアタラも一度、襲撃を受けている。武装勢力の一派MNLAが村を襲い、停泊している船に片っ端から油を撒き、火をはなっていった。船が、この村の収入を支えていることをわかっていたからだ。たまたま帰宅していたアラサンさんは、「この船は仕事で使うものではなく、家で個人的に使うものだ。だから火をつけないでほしい」と頼み込み、難を逃れたという。

 この一件があって以来、アラサンさんは、自分のIDカードに記載される職業を、河川輸送から農業に変えた。万が一にも再び襲撃されることがあった場合、自分は農家だと示すことで、船を守るためだ。

 モプチ以北の陸路の往来は、紛争が始まってから激減している。川岸の村々も、襲撃された。それでも、ニジェール川の往来は、かつてよりは減ったものの、今も健在だ。

 マリ北部の主要な都市では襲撃と占領が繰り返されたが、ニジェール川が制圧されたとの話を、私は聞いたことがない。神様が与えたもうたニジェール川は、依然、神様の手にあるのかもしれない。

岩崎有一(いわさき・ゆういち)
1972年生まれ。大学在学中に、フランスから南アフリカまで陸路縦断の旅をした際、アフリカの多様さと懐の深さに感銘を受ける。卒業後、会社員を経てフリーランスに。2005年より武蔵大学社会学部メディア社会学科非常勤講師。ニュースサイトdot.(ドット)にて「築地市場の目利きたち」を連載中