通った1960年代は、1学級で20人くらい。スポーツは、人数が足りないので何でもやった。一番楽しんだのはソフトボール。あとは友だちと山へ入り、海へ出かけた。

 湾内は静かだから、小学校2年生のころ祖父から手漕ぎの舟をもらい、みんなで漕ぎ出す。竹竿の先にトリモチを付け、岸壁や港で磯釣りもした。限られた道具で創意工夫して、うまくなっていく。これも自立だ。釣りは、いまでも大事な息抜きだ。

 小学生のとき、将来なりたかったのは、外国航路の船長だ。湾の沖に、大きな船が通るのがみえた。台風が近づくと、20隻、30隻と避難してきて、通り過ぎるまで1週間から10日間、停泊した。

 母は「あの船に乗ると、外国へいけるぞ」と言った。父は「以前は戦艦の長門や陸奥がきて、兵隊の宿舎があって上陸して休んでいった」と話した。校歌の「七つの洋(海)に船出せん」に両親の話が重なり、「外国へいきたい」との思いが育ち、『源流』からの流量が増えていく。

 1957年8月、中学校の英語教諭だった父が勤めていた奄美大島で生まれ、すぐに父の転勤で加計呂麻島へ。母も元は小学校の教諭で、3歳上の兄、3歳下と6歳下の妹の6人家族だった。

 加計呂麻島はほとんどが山で、川の下流のくぼ地に集落ができていた。一つの集落から次の集落へ移動するのに、3キロは山を越えて歩く。それぞれが半農半漁のような自立した暮らし。薩川の小中学校の校区には六つの集落があり、それぞれ離れ閉ざされていて、言葉も立ち振る舞いも少しずつ違う。そんな子どもたちが集まるから、学校には一種の「多様性」もあった。

 2005年ごろから、9月の最終日曜日にあった小学校の運動会に、東京から土曜日にきて日曜日に出て走り、夕方の飛行機で帰った。2012年4月から1年間、初めての海外勤務でロンドン支店長をしていたときもきた。『源流』は、何物にも代え難い。

 小学校から近い薩川中学校へも、歩いていった。やはり父の転勤で小学校5年生になる前に、奄美大島へ引っ越した。中学校2年生のとき、父が大病をして鹿児島市の病院へ入院。母が付きっ切りでいっていたので、子どもたちは4カ月ほど、加計呂麻島の親類へ預けられた。中学校へくれば、その日々が甦る。

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