夏目漱石の没後100年だった2016年。新潮文庫から猫好きの作家8人によるアンソロジーが出た。題して『吾輩も猫である』。
いずれも猫が一人称で語る趣向で、巻頭の赤川次郎「いつか、猫になった日」は〈どうやら、私は「猫」と呼ばれるものであるらしい〉という一言ではじまる。見覚えのある家にもぐりこんだ彼女は、そこで忽然と気がつく。〈私はこの家の主婦だった。もともと猫だったわけじゃない〉
さらに家族の会話からはじめて知る衝撃の事実。〈私が死んだ?それも「自殺」?/全く思い当らない。でも──ともかく死んだことになっているのは確かなようだ。/私は猫に生れ変ったのかしら?そんなことって……〉
恩田陸「惻隠」は〈ワタクシは猫であります。/ええ、確かに。はい、この肉球にかけて〉と書き出される。彼女は石造りの立派な階段がある豪邸のような場所に住んでおり、そこには毎朝8時になると同居人が通ってくる。同居人は何人も入れ替わったが、〈代替わりするにつれて、存在が軽いというか、つまんないというか〉な感じになっていった。しかも最後の同居人がこれまで〈誰も使ったことのないボタン〉を押すに至り……。もしかして彼女はホワイトハウスの猫?
〈妾は、猫で御座います〉と語り出す猫あり(新井素子「妾は、猫で御座います」)。〈あたしは、猫として生まれた〉と語り出す猫あり(村山由佳「猫の神さま」)。バカバカしいといえばバカバカしい企画だけれど、どの短編もどこか悲劇の様相を帯びているのは元ネタのせい? 時代のせい?
雌猫を主人公にした短編が多いこの本で、雄猫が語り手の原田マハ「飛梅」は異色の一編。〈俺は猫だ。名前だって、ちゃんとある〉と語りはじめたこの猫は、やんごとなき公家の生まれで、父はヒカル、母はムラサキ。が、ある事情から猫本専門ネットショップ「吾輩堂」の丁稚となり……。
ニャンとも猫を食った猫だらけの短編集。猫好きな方へのクリスマスプレゼントにどうぞ。
※週刊朝日 2016年12月30日号