野球殿堂入りし、会見する掛布雅之さん
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 長嶋さんは僕と同郷の千葉県出身で、同じ4番サード。ありがたいことに僕も「ミスター」と呼ばれましたが、比較するのは長嶋さんに対して失礼です。長嶋さんは敵も味方も超越して、すべての野球ファンから応援される特別な存在でしたから。僕は、長嶋さんのようにすべての野球ファンから認められるような選手になりたいという思いでプレーしていましたし、そういう選手にならなければならないという暗黙のメッセージを長嶋さんから常に感じていました。

【写真】監督として対決した“ON”コンビなど「ミスタープロ野球」の名シーン

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 右打者と左打者という違いもあったので、見本としていたのは特に守備での心構えでしたね。長嶋さんの守備はダイナミックで、守る野球の見せ方をわかっていらっしゃった。僕が阪神2年目のシーズンに復帰された吉田義男監督もまた、守る野球に対するこだわりを大切にされていて、2人の存在が僕の守る野球を育ててくれたと思います。もちろん長嶋さんのように華麗に、流れるようなフォームでの送球は僕にはできません。僕は僕なりに強いボールを投げたり、自分のスタイルを作り上げていったりしようと思えたんです。

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 長嶋さんの現役最終年が僕のプロ1年目にあたります。実はそのシーズン、声をかけていただいたことがあるんです。甲子園球場での阪神巨人戦です。試合前に球場でサードの守備練習をしていたときに長嶋さんが入られて「歳いくつだ?」って。もうびっくりして、うれしさと緊張が混ざって何とも言えない感情になりながら、直立不動の姿勢になって「19歳です」と答えました。その時に「若いなあ! 頑張りなさいよ!」「楽しまなきゃだめだぞ!」と言われたことは、すごく印象に残っています。長嶋さんは僕が千葉県出身だということを知っていらっしゃったんでしょう。同郷として頑張れとお尻を叩いてくれたんだと思います。

 僕がプロに入って3年目に初めて3割を打ったとき、球団から背番号について「3番が空いているから着けたらどうだ」と言われたことがありました。だけど3番と言えば長嶋さんの背番号。僕はどんなに頑張っても長嶋さんにはなれない。だったら「阪神の31番・掛布」という確固たる形を作っていこうと。当時の僕はプロ入り後の3年間で、プロ野球のすごさや怖さみたいなものも経験できていたので、最初にもらった31番を大切にすべきじゃないかと、背番号を変えることはしませんでした。

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