
長嶋退任の裏に、確かに視聴率の問題が隠れていた。
巨人戦ナイターの視聴率は8月末までで15・1%だった。2000年の年間平均18・5%を3ポイント以上下回っていた。7月11日、午前中に放送された大リーグのオールスター中継は11・2%だったのに対し、その夜の巨人戦は10・2%しか稼げなかった。シーズン後半には一桁まで落ちる日も少なくなかった。
長嶋はシーズン中、ずっと視聴率を気にしていた。知り合いのアナウンサーを見つけては、数字を確認していた。その率の低さに落胆を隠さなかった。
読売グループ全体からの「圧力」を長嶋は敏感にかぎとっていたに違いない。「どうしても続投してほしい」という空気が希薄なことを感じ取り、あの「退任劇」に追い込まれていったのではなかったか。長嶋は、いかに潔く退くかを考え続けた。
小俣広報が、ぽつんと言ったことがある。
「長嶋さんの好きな花をご存じですよね」
桜である。それは、何度か聞いたことがある。
「理由を尋ねたことがありますか。潔く散るからですよ」
退く動機よりも、そのスタイルの方が、長嶋茂雄にとっては重要なのだ。
ファンからどう見えるか、ということが、彼の最も大事な行動基準となる。
「昭和32年の12月の何日だったかな。このホテルのそばの東京会館で巨人とサインしてね。契約金1800万円。僕の持論であるファンあってのプロ野球。何かちょっと理論めいたことで言うと、時代が球界をつくり、そしてその時代のなかにいる国民がヒーローを育成するという格言が昔からあるんですよ」
それを「格言」と呼ぶかどうかは別にして、長嶋は自らが、時代に育てられた存在だという意識が強い。
「昭和30年代の前半をみてみますとね。非常にやっぱり高度成長の時代の息吹みたいなね、そういうものがバッと揺れ動いていたわけでしょう。それに乗っかって長嶋も球界も、突っ走ったんです」
1955年から73年にかけてを日本の「高度成長時代」と定義することが多い。長嶋が立大で1号本塁打を放ったのが55年。巨人でのルーキーイヤーが58年。現役を引退したのが74年だから、確かにその活躍は「高度成長時代」とピタリと重なる。
この間にテレビ普及率は6倍、国民総生産(GNP)は5倍に伸びた。
「昭和34年6月の25日にね、昭和天皇が初めてプロ野球を観戦なさって、あれからファンのみなさんの見方が非常にホットになってきたと思います。その試合で期待通りに結果と力を発揮してね。プロ野球が時代のメジャーに入ってきたわけでしょう」
「僕は、時代の一節であったということで、いいと思っているんですよ。高度成長の一番よき時代に野球ができた。国内はもちろん、海外に、みなさん会社を代表して出ていってね、一生懸命頑張り抜いたわけでしょ。そういう時代の活力になれたかな、と」
しかし、「時代」は長嶋茂雄を手放さなかった。
20世紀最後、2000年の巨人対ダイエーの日本シリーズを「ONシリーズ」と呼ばなければならなかったことに、それは端的に表れている。
そして、時代は動き、時はうつろっていくのに、長嶋茂雄だけが長嶋茂雄であり続ける。