退任を表明した巨人の長嶋茂雄監督(当時)。右は原辰徳ヘッドコーチ(当時)=2001年9月28日、東京都内のホテルで

「前回」とは、1980年10月21日のことだ。長嶋は3年連続リーグ優勝を逃したことから、巨人の監督を辞任した。記者会見で「男としてケジメをつけたい」と話した。

 しかし、実体は「解任」だった。川上哲治元巨人監督が裏で糸を引き、藤田元司監督を誕生させたともうわさされた。ファンはユニホームを脱いだ長嶋にラブコールを送り、読売グループは大きな痛手を受けた。

 あのような騒動は避けたい、という思いが、彼には強くあった。

「昭和30年代の前半からファンの支援をいただき、育てていただいたという恩というか、そういう感謝の気持ちが僕は非常に強いものですから、やっぱり身の処し方というのは非常に難しいですよね。ややもすると、トラブルが起きてみたり、不本意に相手に迷惑をかけてしまったり。今回の場合はみなさんに迷惑をかけずにいい形でバトンを渡しながら、将来にはばたくセレモニーで受け継ぎをしたい、という半ば夢みたいなものがありました」

 去り際の「美学」のようなものにこだわったのは理解できる。しかし、やめなければならない理由は、やはりはっきりとしない。

「8月に決断して、渡辺(恒雄)オーナーにお話ししたのは9月に入ってからですね。直接お目にかかってね。原(辰徳)監督も僕のそばについて3年。ヘッドコーチとしても成長しているし、もうそろそろいいじゃないかという形でね。ぜひバトンを次の世代に託したいということをオーナーに申し上げました」

 9月27日の夜に、長嶋は退任を家族に告げたと言う。

「記者会見の前の晩ですね。それまでは、家内も含めて一切明かしていませんでした。その晩、子供たちに久々に集合をかけて、『明日、記者会見をやるから』と。家内は『長い間ご苦労様でした』と言ってくれた。子供たちは『今度はもう自分の好きな人生を送ってください』ってね」

 私事になるが、僕は28日の記者会見に出られなかった。8月末からサッカーと大リーグ取材のために、ドイツと米国に出かけていた。日本にもどったのは大リーグ・ワールドシリーズの取材を終えた11月初旬だった。

 現地時間の27日、シアトルのホテルの一室で携帯電話が鳴った。東京のデスクから、長嶋監督の記者会見が設定されていることを知らされた。周辺取材の電話を、ホテルからかけ続けた。原稿を送り終えるころには、夜が白々と明けていた。

 その中で、気になる情報をもたらしてくれる人がいた。読売グループの首脳だった。

「50歳以上の巨人戦のテレビ視聴者は、今でもむしろ増えているんです。でも、いつまでも、その層に頼っているわけにはいかない。先を考えて構造改革が必要なんです」

 電話口の声は、早口で続いた。

「少なくとも、35歳を中心とする視聴者の支持を得ないとだめなんです」

 では、ある意味で、長嶋茂雄は再び「解任」されたのだろうか。

 ぶつけた質問に、少し間を置いて答えた。

「それは、少し違う。留任、退任の選択権は最後まで長嶋さんにあったわけです。ただ、これで、コーチを含めて若い顔がベンチに並ぶことになる。それだけで、雰囲気は違ってきますよ」

次のページ 長嶋退任の裏に視聴率の問題