社員章にも刻まれる鳳凰赤十字を抱擁する社紋

明治天皇の妻の「美子(はるこ)皇后」(昭憲皇太后)は、御簾の奥から表に出て活躍した女性皇族として知られる。顔の上に輝くのは、現在、皇后雅子さまの手元にある皇后の第一ティアラ

 それにより、日赤の社章は、古来天皇の着衣にも用いられた桐・竹・鳳凰の意匠が赤い十字を抱擁するデザインとなった。

 ここには、単なるデザインへの助言以上の深い意味が込められている、と小菅さんは見る。

「日本は非キリスト教国であり、キリスト教弾圧の歴史を持つ国です。昭憲皇太后、ひいては皇室の伝統が、西欧キリスト教文明の象徴を受け入れ、かつ保護するという連想を意図したように見えるデザインです」

 両者のつながりは現在に引き継がれ、日赤の名誉総裁を歴代皇后が、名誉副総裁を各宮妃が務め、女性皇族の大切な公務めとなっている。

年に一度開催される全国赤十字大会において、名誉総裁を務める皇后雅子さまと名誉副総裁を務める妃殿下方の胸元には日赤の記章がつけられている=2024年5月15日、明治神宮会館、JMPA

御簾の奥から出た皇后は…

 この時代、日赤は昭憲皇太后の庇護のもと組織と活動を広げていくとともに、女性皇族も日赤をきっかけに活動の幅を広げていった。

「かつて日本では、高貴な女性は人前に姿を現してはいけなかった。御簾のうしろでおししとやかに座り、手習いや楽器を弾いて時間を過ごすことが当たり前でした」(小杉さん)

 しかし、明治維新と日赤への熱心な活動は、御簾の奥にいた「美子(はるこ)皇后(昭憲皇太后)」が表に出るきっかけとなり、近代的な皇室という印象を強く打ち出すことになった。

 小菅さんは、皇室と日赤との関わりは、近代日本の国民統合の在り方にも影響を与えた、とみる。

 1877(明治10)年に勃発した西南戦争の悲惨な戦況を聞いた佐野は、征討総督にあった有栖川宮熾仁親王に博愛社(日赤の前身)設立を願い出る。

 そのとき、佐野は請願書のなかで「朝廷ノ寛仁ノ御趣意、内外に赫著(かくちょ)スルノミナラス感化スルノ一端トモ可相成」(『日本赤十字社発達史 全』)と記した。

年に一度開催される全国赤十字大会において名誉総裁を務める皇后雅子さまの左胸には、日赤の記章がつけられている=2024年5月15日、明治神宮会館、JMPA
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