この時代、兵隊は大将の家臣が地元から連れてくるのですが、その兵隊は領地にいる地元の人々ですし、彼らが使う武器も、食料も、全て自前で用意するものでした。

 当然彼らは嫌だと思いながら渋々戦場に来ますので、たくさんの数を揃えることはできません。長期間戦場に留めることも、長距離移動させることもできません。兵隊が持ってきた食料を全て食べ尽くしたら以降は現地で調達し、最終的には略奪することになってしまい、悪評が立ちます。

 そもそも本来の職業は専業の兵士ではないのですから、田植えの時も稲刈りの時も戦争には参加できません。山間部では冬になって雪が降れば移動が難しくなります。つまり戦争ができる期間は極めて限られた時期であり、狭い範囲でしか戦うことができず、その中でどれだけ効率的に動けるかということが重要になるのです。

 これが戦国時代後期、織田信長の時代になりますと経済力をバックにして兼業ではない専業の軍隊が作り出され、季節や距離や地元の悪評などに縛られることなく戦争ができるようになります。信長が急速かつ広範囲に勢力を拡大できたのは、このためと考えていいでしょう。

 つまり、政元及び政元の時代の武将たちが勝った後、相手を追いかけて殺さなかったのは、そんなことができる状況ではなかったから、ということになります。自分たちの生産力や、兵士たちの事情について様子を見ながら、ある意味で政治的な判断をしなければならなかったのです。この辺りの判断をしくじり、例えばむやみやたらに長滞陣をしてしまうと、反感を買うことになります。

 少なくとも政元の時代、戦争に関する評価は「攻めてもいいけれど無駄にしないで成果をあげ、周囲にもちゃんと利益を与えるように。そうでないなら攻めないように」というところで決まりました。戦国時代後期のような「敵に勝てるか、土地を奪えるか」というような評価軸ではなかったのです。

 このように戦の能力は政治能力の一部であると解釈できるわけですが、では政元の政治能力はどう評価できるのでしょうか。これは十分高かったし、そのおかげで権力を握ることができたと言っていいでしょう。

 政元は管領を務めなかった期間が長かった人物ですが、管領的ポジションとして幕政を取り仕切っていました。そして応仁の乱が終わってから彼が暗殺されるまでの約三十年間、幕府はそれなりに安定していたのです。もちろん問題はいろいろあったのでしょうが、政元が政治を握ってそれなりに上手くやった、それだけの政治能力があったということなのでしょう。

 『オカルト武将・細川政元』では、「空中飛行」や呪術の修行に没頭した政元の人生をたどりつつ、将軍追放のクーデターにおける日野富子との交渉など、応仁の乱以降の“激動の時代”を解説しています。

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