
先週に多く読まれた記事の「見逃し配信」です。ぜひ御覧ください(この記事は「AERA DIGITAL」で2025年5月15日に配信した内容の再配信です。肩書や情報などは当時のまま)。
* * *
室町時代末期における戦争は、戦国後期の織田信長や豊臣秀吉の時代とは大きく異なっていた。
細川氏研究の第一人者である古野貢教授は、著書『オカルト武将・細川政元 ーー室町を戦国に変えた「ポスト応仁の乱の覇者」』の中で、その時代背景について言及している。
同書から一部を抜粋して解説する。
政元の軍事能力について掘り下げてみましょう。細川政元の評価について、「戦によって細川氏の版図を最大まで広げた」とする声があるからです。
政元は戦において強かったのでしょうか、それとも弱かったのでしょうか。彼の全体的なあり方を見ますと、非常に強かったというわけでもなさそうですが、かといって軍事的な才能がなかったかというとそれも少し違います。政元が主に行なったのは政治的な駆け引きの方でしょう。明応の政変などはまさにその代表例といえます。
戦の能力について、戦国大名のような軍事的攻撃によって支配地を拡大したか否かで評価しようとすると、政元という人物や当時の事情を見誤るかと思います。私たちが戦争や合戦という言葉からイメージする戦国時代後期、特に織田信長らが活躍した時期と政元が活躍した時期とでは事情が大きく違いました。それを理解することで、政元の能力について正確に捉えることができるでしょう。
もともと細川氏は京都周辺では摂津国や丹波国、和泉国のあたりを押さえていたのですが、やがて大和国や山城国あたりも手中に収めていくことになります。しかし、例えば「政元が兵隊を連れて大和国へ進軍した」というような軍事侵略が主たる勢力拡大の方法ではありません。一部の内衆たちが侵略的行為を行っていたり、局地的な戦争で敵を追い払って占領したりはしていました。
例えば河内国の場合、まず河内国内における畠山氏の拠点として飯盛という土地を押さえ、畠山氏の勢力を排除します。そして「以後、細川氏の言うことを聞きなさい」と命令する形で制圧が行なわれました。
このようなやり方は、この時代の戦争のあり方を表しています。一度戦ってどちらかが勝ったなら、負けた方は近隣へ逃亡し、勝った方はその空いたところを接収していきました。そこで戦争はいったん終わるのです。勝った方も追いかけませんから、負けた方も生き延びさえすれば態勢を立て直して反撃し、延々と継続するということになりかねません。
これが戦国時代になり、戦国大名たちの合戦の段階になりますと、大規模な軍隊を準備して攻撃を仕掛け、どこかの国なり地域なりを面的に押さえ込むという形になっていきます。
特に戦国時代後期になると織田信長や豊臣秀吉らが何十万人もの軍隊を率いて広範囲に攻撃したり、あるいは秀吉のように敵を限定された城や空間に包囲しての攻城戦を展開し、兵糧攻めで飢餓状態に追い込んだりもできるようになります。
しかし、政元の時代の戦争はそのような形ではなかったはずです。戦国後期のような大規模な軍隊を作ることができなかったので、先に紹介したような戦い方をしたわけです。あくまで局地戦に過ぎなかったのです。
なぜ、大規模な軍を作れなかったのでしょうか。