沖縄研究という仕事柄、那覇によく出張して、タクシーにもよく乗るのだが、沖縄のタクシーのおっちゃんはみんな本当に面白い。おっちゃんと喋るのも出張の楽しみのひとつだ。こないだ乗ったタクシーで、今年の夏は台風が少なくて、サンゴが白化してるらしいですねと、おっちゃんが話しだした。そうだなあ、かわいそうやなと答えて、しばらくサンゴの話をしてると、だんだん会話が変な方向に走ってしまい、サンゴもだらしないのではないか、と言いだした。これまでも雨の少ない年ぐらい何度もあっただろうに、何万年も進化してないし。サンゴも自助努力が足りませんよね。ほんまやな。確かにそうだわ。ぜんぜん過去に学ぼうという姿勢がないよね。南の海にいるくせに温度に弱いのはわがままだ。サンゴは生ぬるい。亜熱帯だけに。

 もちろん全てくだらない冗談で、サンゴの白化現象にはそのおっちゃんも私も本当に胸を痛めていて、だからこそそういう話になったのだが、そのおっちゃんは淡々と真面目に面白いことを話すタイプで、私はそれを聞きながら後部座席でゲラゲラと笑っていた。

 そしてそのすぐ後だった。高江を警備する大阪府警の機動隊が、座り込みをしていた沖縄の人にむかって「土人」と言い放ったのは。私はこの話を聞いたとき、沖縄を研究する社会学者として、これまで何度も通った那覇で会ってきた、たくさんの沖縄の人びとの顔を思い出した。そして、みんな、どう思ってるだろうと思った。

 この本は言葉について書かれた本である。言葉をめぐる状況はどんどん悪くなっていると思う。一方で言葉には、非常に細かく厳しい規制がかかっていて、それは果てしなく形式主義的な、まるで書類のなかの文言のようになっている。そしてこれと矛盾するようだが、他方で、これまでは絶対に表に出なかったような、ひどい暴言や極論が飛び交っている。しかし実はこのふたつは矛盾しない。中身がないということについて、それらは共通しているのだ。

 私がいる大学という世界にもはびこる、説明責任の名の下でつぶやかれる、空虚な言葉たち。説明責任を果たすとは、「何か起こったとき」に責任を逃れられるように、あらかじめ伏線を敷いておくことである。そういう意味で、これは言葉というよりも行為だ。いちおうやっときましょか、という組織防衛行為の一環でしかない。

 あるいは、政治家などの社会的地位のある人びとがときおり放つ暴言や失言。これも単に、それを聞いた人びとをスカッとさせるだけの機能を持っているだけで、中身はない。もし問題になれば、そういう意図はなかったと言い訳すればよい。

 どちらの言葉も、言葉というより、実際的な機能や役割を持った行為である。そしてどちらの言葉からも、意味が失われている。むしろ、言葉というものは、意味を消去されたときから、何かの効果や作用を持つのかもしれない。この効果や作用というのは、もっと簡単にいえば、誰かをコントロールしたいということである。一方で、隙を与えない、弱みを見せない、なにかめんどくさいことが起きたときでも相手に攻撃をさせないような言葉。他方で、他者を攻撃し、傷つけ、怒りや不安や恐怖や憎悪を煽り、そしてそうすることで自分の陣営によりたくさんの人びとを動員するための言葉。

 本書で高橋源一郎は、気恥ずかしくなるほどストレートに、政権を批判し、民主主義を守ろうとする。だが、そうした政治的なことを高橋は、言葉の側から考えようとしている。彼は官邸前に集まった若者たちの言葉に感動し、政治家たちの言葉に失望する。高橋を惹きつけるのは、意味のある言葉だ。誰かを支配しようとする言葉でもなく、責任を回避するための言葉でもない、ほんとうの意味をもつ言葉。私は「文学」というものについてはまったく素養も知識もないのでわからないが、たぶんそれが文学というものなのだと思う。そして私は、そういう言葉たちと、沖縄や大阪での、聞き取り調査の現場でたくさん出会ってきた。

「土人」という暴力的な発言によって、私たちの世界には、無数の傷やひび割れが生まれている。それを塞ぐことは容易ではない。私たちは文学という営みのなかで、あるいはたまたま乗ったタクシーの後部座席で、世界の亀裂を癒す言葉を探すしかない。それはとても心細く、時間のかかる作業だが、高橋源一郎はこの本のなかで、そんな言葉をたくさん拾い集めている。
 本書を読んで、もうすこし希望を持ってもいいのかな、と思った。