
「日本三大ドヤ街」の一つで、全国最大の日雇い労働市場があると言われる大阪市西成区の釜ケ崎。かつて劣悪な労働環境とピンハネが問題になっていたこの街の現場に「潜入」取材した人物がいる。発売中の書籍『西成DEEPインサイド』(朝日新聞出版)から、ジャーナリストの大谷昭宏さん(79)の体験談をお届けする。
【写真】日雇い労働者の暴動もたびたび起きた「釜ケ崎」の当時の様子はこちら
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ジャーナリストの大谷昭宏さん(79)は読売新聞記者時代、釜ケ崎で「潜入取材」をした経験がある。
当時27歳。西成区を担当する南大阪記者クラブに所属していた。天王寺動物園の中にあり、通称・動物園記者クラブ。記者室は鳥舎近くのボイラー室の2階にあった。
なぜカマで暴動が繰り返されるのか。日雇い労働者らのうっぷんがなぜたまるのか。
「体で感じてきたらどうや」。原稿を見てもらうデスクから指示され、劣悪な労働環境とピンハネが問題になっていた日雇い労働の現場を取材することにした。
「ここらのもんやないやろ」
1972年7月10日の早朝、日雇い仕事などをあっせんする西成労働福祉センターを訪れた。
選んだのは、日当が1900円と、目立って安かった製鉄所での仕事。「仕事がほしい」と手配師に伝えると、じろじろ見られた。「ここらのもんやないやろ」
チェックされたのは耳の後ろの日焼け。日雇いの仕事を続けていたら耳の裏も黒いが、自分は違う。「訳ありでここに来ました」と言うと、バスに乗ることができた。
車内では名前を書かされたが、身分証の提示は求められなかった。問題があったときだけ行政に示す目的で、本当の名前を書く人は少ないようだった。何らかの事情で故郷や家族から離れた人が多いからだ。
一緒に乗り込んだ先輩記者は、苦手なデスクの名前を書いて、にやついていた。先輩にならって別のデスクの名前を書き込んだ。
到着した堺市の工場では、溶鉱炉へ運ぶベルトコンベヤーから落ちた鉱石や鉄粉をひたすらシャベルですくい、ベルトに戻し続けた。何の資格もいらないから日当が安い。安いほうが作業が楽なはずと考えていたが、甘かった。