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作家・北原みのりさんの連載「おんなの話はありがたい」。今回は、「選択的夫婦別姓」について。

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  選択的夫婦別姓議論が高まっている。次の参議院議員選挙では選択的夫婦別姓に反対する議員には投票しないという運動も起きたりなどして、もういよいよの段階に来ている……と信じたい。その過程で子の氏はどうなるのか、戸籍制度はどうなるのか。これまで考えなくてもよかった問題に対しても、具体的に現実的に語る機会も増えていくだろう。時代は動いているのだ。

 それにしても、選択的夫婦別姓を巡る議論でつきつけられるのは、改めての「氏」の重さというようなものである。

 氏とは、たかが記号という軽さではなく、多くの人が氏を一つのアイデンティティーとして捉えている。それは戦前のイエ制度で重んじられた氏としてではなく、「私が私であることの姓」として。毎日のように呼ばれ、使われ、私が私であることを証明する氏は、実は私たちの心理を、私たちが意識している以上に深く支配しているのかもしれない。「手続きが大変だから」だけではなく、アイデンティティーとしての氏を手放したくない人のためにも選択的夫婦別姓はある。

 それでもいったい氏とはなんだ。戦後になって婚姻時に妻か夫の氏を選択できるようになったが、ほとんどの日本人が「父親の氏」を名乗って生きている。それが「当たり前」だからこそ、いまだに婚姻する女性のほぼ100%(最近は95%前後)が自らの氏を捨てる選択をするのだろう。そんなふうに、「日本は父系でいきますよ」というふんわりとしたルールを、私たちはのみ込んできた。誰が決めたルールなのかもわからないまま。

 強制的に夫婦同姓にする法律は、今、日本だけにしかないと言われているが、ふんわりとした「父系ルール」は、いまだに多くの国にあるものだ。父親が誰かを厳しく問う社会は例外なく女に厳しく、男に甘く、女と男に違う性のルールを敷く。そういう二枚舌をフェミニストたちは「家父長制」と呼び、批判してきた。多かれ少なかれ今の世界、たいていの国が家父長社会である。そのなかでも選択的夫婦別姓すら許さない日本は、それだけ家父長制が強烈だということだろう。

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