斉国の北辺は、河水(黄河)を国境としていた。実際は河水は分流して河水のほか清河、済水と少なくとも三つの河があり、これらを渡らなければ斉に入れない。斉は自然の河川を防衛線としていた。そこを王賁軍は不意に奇襲したのである。
はたして大河の流れる自然の国境を、容易に越えられたのであろうか。
秦の王賁軍が斉を攻撃したのは始皇二六(前二二一)年とあるだけで、月はわからない。この年は秦が中華を統一した年であるため、重要な一年が一〇月に始まったといえる。秦の暦では一〇月の冬が一年の始まりで、九月が年末となる。『史記』によれば、冬一〇月以降に斉を攻撃したことになる。
里耶秦簡(りやしんかん)には、王賁の名が記された簡牘があった。歴史上の人名が簡牘に記されるのはめずらしい。戊戌(ぼじゅつ)の日に大庶長の(王)賁が報告した文章のなかに「已尽略斉地(すでにことごとく斉地を略す)」ということが見える。
戊戌は六〇日に一度の干支であり、一一月一五日の可能性がある。その時点で「已(すで)に」と言っているため、斉を滅ぼしたのは一〇月の可能性が高い。
冬一〇月に王賁軍が燕から南下して斉の国に入ることは、それほど難しくはない。夏の終わりから秋の増水時には、河水を渡るのは難しかっただろう。
斉王建(在位前二六五〜前二二一)は丞相の后勝の計略を聞き、戦わずして秦軍に降伏した。秦軍は斉王建を捕らえ、共(きょう)という地に遷し、斉を滅ぼして郡(斉郡)とした。
李信は王翦の子の王賁と燕・斉を平定する軍に加わり、統一を実現する。六国のうち楚・燕・斉の三国を滅ぼした武将となる。
《朝日新書『始皇帝の戦争と将軍たち』(鶴間和幸 著)では、李信、騰(とう)、羌瘣(きょうかい)、桓齮(かんき)、李牧(りぼく)、楊端和(ようたんわ)ら名将軍たちの、史実における活躍を詳述している》
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