野球部の仲間と自転車で淡路島一周をした(写真/本人提供)

 77年4月に野村證券へ入社、横浜駅西口支店へ配属される。初めての家へいって投資の説明をする飛び込み営業も、人と話すのが嫌いではないので、苦ではない。営業の成績も悪くなく、「自分は営業に向いている」と思ったときもあるが、外国へいきたいとの夢は残っていた。

 そこで、社内の留学制度へ手を挙げる。留学試験は入社3年目にしか受けられず、逃したらもう機会はない。ところが、選抜試験前の金曜日夜に、かわいがってくれていた先輩3人が「留学など必要はない」と言って、午前3時まで飲まされた。

 試験の日はひどい二日酔い。同じ鎌倉市の寮にいた別の支店の同期生と車で受けにいく予定で、同期生が朝7時に起こしにきたが「おれはダメ、1人でいってこい」と言うと、「そんなこと言わずにいこう」と連れ出される。助手席で寝ていき、試験場の大学で英語の試験を受けたが、結果はひどかった。

二日酔いで受けた試験になぜか合格し米大学院へ留学

 それでも、全国の支店から30人くらい受けたなか、2人だけの合格者の1人に、なぜか選ばれた。営業の成績を評価してくれたのか。80年初秋に米ペンシルバニア大学の経営大学院ウォートン校へいき、修士号を取得する。二日酔いの自分に試験を受けさせてくれた同期とは、いまも一緒に飲んでいる。

 W&Pから帰国後、人事部長などを挟んでロンドンの英国野村で3度、勤務した。3度目の08年は専務として、野村が買収した米リーマンブラザーズの海外業務を含めた世界の投資銀行業務のトップ。『源流』からの人脈づくりは欧州でも進んだ。

 帰国する準備をしていた2013年春、野村の先輩の日本取引所グループCEOから「大阪証券取引所の社長をやってくれないか」と誘われた。証券取引所には20代に円建て外債の上場申請にいったくらいで、ニューヨーク時代もロンドン時代もいったことがない。国内的な業務ばかりだろうと想像したが、同年6月に社長になっていくと、大証は先物取引を扱い、連日、世界中から注文が飛んでくる。インターナショナル(国際的)というよりもグローバル(全世界的)な仕事だ、と実感した。

 2021年4月に東京証券取引所の社長、2023年4月に日本取引所グループのグループCEOに就いても、米英で過ごした計16年近くに築いた国際人脈に世界を代表する証券会社のトップもいるから、連携は難しくない。半世紀前に父から聞いた「インターナショナルなビジネスマンになってほしい」という言葉から生まれた夢は、世界人脈の構築をもたらし、『源流』からの流れは、いまグローバルに広がっている。(ジャーナリスト・街風隆雄)

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