東京市場の株価は外為市場の円と同様に外国人投資家の売買に大きく左右される。それだけに海外勢との対話がたいへん重要で「人脈」が大いに活きる(写真/狩野喜彦)
この記事の写真をすべて見る

 日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2025年2月3日号より。

【写真】学生時代の自転車旅行

*  *  *

 1984年3月、東京の野村證券の国際金融部から、ニューヨークにある子会社の米国野村へ赴任した。担当は、首都ワシントンにある国際機関や公的な金融機関などが、融資に使う資金を得るために出す債券の発行業務だ。債券を売って資金を調達するのは日本で、円建てだから「サムライ債」と呼ばれた。

 当時の日本は対米貿易黒字が膨張し、黒字縮小に国内需要を増やそうと、日本銀行は金利をどんどん下げて市場に巨額の資金を流していた。過剰と言えた資金供給は、無人島にまでリゾート施設を計画するバブル経済を招き、企業がニューヨークの著名なビルやホテルを買収する「ジャパンマネー」を生んだ。

 ニューヨーク勤務でこの「ジャパンマネー」に目をつけて、サムライ債の発行を斡旋した。何度もワシントンへいき、金融機関のトップらに直に会い、発行計画を説明して実現にこぎつける。山道裕己さんがビジネスパーソンとしての『源流』になったとするのが、このときに築き始めた国際人脈だ。

 民間住宅ローンへの保証を扱う連邦住宅抵当公庫、通称「ファニーメイ」のデビッド・マックスウェル会長も、その一人。潤沢で低金利の「ジャパンマネー」の活用案を携えると、30歳前後の証券マンでも面談してくれた。ファニーメイは積極的にサムライ債を発行し、4年間で調達額は1兆円近くになる。

いまも親交が続く米金融機関の会長の自宅の庭には灯籠も

 その後も親交は続き、帰国後も、来日したときは通訳役を兼ねて寺院巡りなどに同行。90代を迎えても健在で、同氏のワシントンの自宅の庭には、東京・神田の古物商へ案内して買って帰った灯籠が置いてある。

次のページ