米州開発銀行、国際金融公社などでも、円建て外債を斡旋した。ワシントンとの「シャトル便」では、マイレージサービスが往復で2千マイル付いた。離任後に調べると、溜まったマイレージは15万マイルを超え、少なくとも75回は往復していた。
88年9月に米国野村から異動した先は、同じニューヨークのマンハッタンにできたばかりのワッサースタイン&ペレラ(W&P)。投資銀行で実績を上げたウォール街の著名人2人、ブルース・ワッサースタイン氏とジョー・ペレラ氏が設立したM&A(合併・買収)の仲介企業だ。野村證券が2割を出資した縁で野村から出向した5人のうち、2番目の課長級だった。
まだ40人から50人の規模だったが、設立者2人がスカウトした人材で急速に増えていく。代表的なのが、ウォール街で有名なM&Aの弁護士事務所の共同経営者だったトビー・S・マイヤソン氏だ。京大へ留学経験があって日本語が話せるから、日本からの依頼や日本企業への提案の仕切り役に最適だった。他の面々も、のちに有力な投資会社のトップになる顔ぶれだ。
そんな同僚と仕事をすると、次々に人の輪がつながり、知らないところからも「ヒロ、誰々にきみを紹介された」と言ってくる。ヒロは裕己(ひろみ)から取った米国でのニックネームだ。ワシントンで築いた国際的な人脈という『源流』は、このW&Pで流れを強めていく。
1955年3月、広島市南区に生まれる。父は自動車会社の営業職、母は専業主婦で、5歳上の姉と父の両親の6人家族。米ロサンゼルスへ移住していた父方の叔母が、定期的にチョコレートや缶詰、ビーフジャーキーなどを送ってくれ、チョコレートがすごく美味しかった。ビーフジャーキーはみたこともなく、「米国は豊かだな」とも思う。「米国」は、子どものころから身近にあった。
65年夏、5年生のときに父が大阪市へ転勤し、宝塚市へ引っ越して同市の小学校へ転校。中学校はイエズス会系の六甲学院へ進み、2年生のときに自分の意志でカトリックの洗礼を受けた。3年生が終わるころに父が今度は大分県へ異動し、自分は六甲学院の姉妹校の広島学院の高校へ入った。
京大時代に父と食事就職で聞いた言葉がずっと頭に残った
京都大学へ進み、3年生のときに父が出張で京都市へきて、一緒に食事をして就職の話になると、父はこう言った。
「自分はインターナショナルなビジネスマンになりたかったが、なれなかったので、お前にはなってほしい」
以来ずっと、この言葉が頭に残り、『源流』となった国際人脈を築く水源になっていく。