一度も仕事をしたことがないまま

 兄は母に可愛がられ、両親の言うことを素直に聞いて育った。だが、高校卒業後に精神疾患を患い、一度も仕事をしたことがないまま今も両親と暮らしているという。

「もう何も自分で決められないです、あの人。親の考えで動くことが染みついたせいで、自分の進路がまるで描けなくなって、そこから病気になって今も精神障害者です」

 高齢になった両親は、その兄に手を焼いている。きょうだいの立場が逆転してしまったのだ。

「兄の黄金期は、中学生までなんですよ。規範となるのが兄で、私はいつも『どうしてお兄ちゃんはできるのに、あなたはできないの?』って言われていましたから。兄は、そのころの家族に戻りたがっているんですね。だから、私を実家に戻そうとするんです。しょっちゅうLINEが来るんですけど、全部無視してる!」

仕事はまだやり尽くせていない

 そして、前編の冒頭の夫の言葉である。

 夫が「一緒に住もうよ、仕事を辞めてこっちに来いよ」というその土地は、東京からも離れているが、実家からも離れている。父と違い、夫はとても優しく、信用できる人だという。 

 夫婦で一緒に暮らしたいと思っている雪乃さんにとって、それは魅力的な提案だった。

 それでも雪乃さんは、今の仕事を手放せずにいる。「私が公務員だったら、稼ぎもあって離婚できるのに」という母の言葉が、「呪い」となって恐怖心を生み出しているのかもしれない。

「仕事は、まだまだやり尽くせていないです。やればやるほど難しさに直面するし、見上げる壁が高くなって途方に暮れている気がします。モチベーションを持って邁進しているというより、このままじゃダメだってジタバタもがいているような日々ですね。それでも、真理と思える言葉に出会える機会が多いことは、この仕事の最大の喜びかもしれない。この世界を的確に言語化するものに出会いたいです」

あの安心感は逆立ちしても手に入らない

 終わりなき高みを目指し続けているのだ。

 雪乃さんは、困った笑みを浮かべて言った。 

「『仕事を辞めて、あなたのところへ行くね』っていう女性が、眩しくて眩しくて。あの安心感は、逆立ちしたって手に入らない」

 私は、雪乃さんの話を聞きながら、人生の選択に恐怖心が大きな役割を果たすこともあるということを知った。

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