『FREEWHEELIN’ BOB DYLAN』BOB DYLAN
『FREEWHEELIN’ BOB DYLAN』BOB DYLAN
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 前回のコラムで書いたとおり、1962年3月発表のデビュー作『ボブ・ディラン』は、ミネソタ州で生まれ育ち、フォーク・ミュージックへの想いに衝き動かされるようにしてニューヨークにやって来た青年の「二十歳の記録」だった。自作は2曲のみという内容ではあったが、しかしそこで彼は、それまでに培ってきたことのすべてを表現し、60年代初頭という時代に、堂々と、その第一歩を踏み出している。

 発表後すぐディランは、ふたたびジョン・ハモンドの指導のもと、次のアルバムの制作に取りかかり、約1年をかけて2枚目のアルバムを仕上げた。『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』だ。このときのアメリカ大統領はジョン・F・ケネディ(翌年、暗殺される)。62年秋のキューバ危機により、第三次世界大戦という言葉・概念が一気に現実味を帯びた。同時期、キング牧師は、ジョージア州やアラバマ州を拠点に公民権運動の中心的存在として熱心な活動をつづけていた。

 さらにはこの時期、ディランは豪腕マネージャー、アルバート・グロスマンと契約を結ぶこととなり、このジャケット写真で肩を並べてニューヨークの街角を歩いている女性スーズ・ロトロとも出会っている。そのスーズについては自著『クロニクルズ』で「とてもエロティックで、目が離せなかった」などと書いているが、それだけではない。左翼活動家を両親に持つ彼女はディランのものの見方などにも少なからず影響を与えていたはずなのだ。また、カーネギー・ホールで開催されたオールスター・フーテナニーへの参加、初渡英とそこでの音楽体験なども作品全体に反映されと思われる。

 そのような時期に録音され、63年5月、22回目の誕生日にタイミングをあわせるようにしてリリースされた『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』に収められているのは、13曲。トラディショナルを独自の解釈で歌った《コリーナ、コリーナ》、テキサスのブルースマン、ヘンリー・トーマスの曲に手を加えた《ハニー、ジャスト・アロウ・ミー・ワン・モア・チャンス》以外の11曲は、完全な自作曲。短期間での大きな成長のあとを示す、デビュー作とは対照的な内容だ。

 オープニングに据えられているのは、あの《ブローイン・イン・ザ・ウィンド/風に吹かれて》。発売直後、やはりグロスマンがマネージメントを手がけていたピーター、ポール&マリーによってカヴァーされて全米2位の大ヒットを記録し、若いアーティストのイメージをある方向に固定してしまった曲ではあるが、ともかく、20世紀を代表する名曲の一つで、幕を開けていたわけだ。ほかに、邦題で書くと《北国の少女》《戦争の親玉》《激しい雨が降る》《くよくよするなよ》など、長く歌い継がれ、聴き継がれていくことになる名曲がこの時点でもう完成している。《コリーナ、コリーナ》などではベース/ドラムスを含むバンドとのセッションも体験していた。明確な意志を持って、ディランはその音楽が表現する領域を一気に拡大させたのだ。

 1992年、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで開催されたディラン30周年記念コンサートに参加したスティーヴィー・ワンダーは、《風に吹かれて》のイントロでこんな意味のことを語っている。「残念なことではあるが、この曲は60年代も、70年代も、80年代も、そして今も、重い意味を持ちつづけている」。それは、ディランの作品に対するもっとも的確な批評の一つと言えるだろう。 [次回9/7(水)更新予定]