今年2016年の5月24日、ボブ・ディランは75回目の誕生日を迎えている。この国では「後期高齢者」と呼ばれてしまったりする年齢に達したことになるわけだが、今年も彼は、そんな一般的な受け止めなど「私には関係ない」と言わんばかりの精力的な活動をつづけている。
4月には通算8回目の来日公演を行ない、渋谷のオーチャードホール、大阪のフェスティヴァルホールなどで、なんと16回もステージに立った。翌5月には、その日本公演の重要なテーマの一つでもあったアルバム『フォールン・エンジェルズ』を発表。10月には、ローリング・ストーンズ、ポール・マッカートーニー、ニール・ヤング、ザ・フー、ロジャー・ウォーターズらが顔を揃える巨大フェスティヴァル、デザート・トリップへの参加も予定されている。(アメリカでは昨年秋から放送されていたものだが)IBMのテレビCMへの出演という、意外性たっぷりの話題もあった。
また、少し歴史を振り返ってみると、ロック・カルチャーにとってもっとも重要な意味を持つアルバム『ブロンド・オン・ブロンド』が世に出てから、今年でちょうど半世紀。年齢を感じさせることのない近年の活動とあわせて、あらためてボブ・ディランというアーティストに注目するようになった方も多いと思う。
そのディランの歩みを、20枚のアルバムを紹介しながら、たどっていくことが本WEB連載の目的。「難解」と敬遠されがちな人ではあるが、若い読者の方も意識しつつ、時代背景や関連アーティスト、影響力の強さ、生い立ち、彼自身が影響を受けた音楽/人、宗教観といったことにも触れながら進めていきたい。
最初に取り上げるのは、1962年3月中旬、つまり21歳の誕生日の2カ月前に発売されたファースト・アルバム『ボブ・ディラン』。録音は前年秋に行なわれているので、まさに「二十歳のディラン」を記録した作品だ。
ロバート・アレン・ズィマーマン、のちのボブ・ディランは、太平洋戦争開戦の年、1941年にミネソタ州北東部のドゥルースで生まれている。ちょうどハイスクールに進んだころ、いわゆる「ロックンロールの誕生」を体験。エルヴィス・プレスリーやリトル・リチャードに憧れ、エレクトリック・ギターを抱えて歌うようにもなったという。しかしその後、彼の興味と関心は急激にフォーク・ミュージックへと系統していき、ミネソタ大学で学ぶためにミネアポリスに移ったころ、最初のアコースティック・ギターを手に入れている。結局、大学は半年でドロップアウト。ディンキータウンと呼ばれるエリアのコーヒーハウスなどで経験を積んだあと、61年を迎えたばかりのころ、ニューヨークに向かっている。
到着後、グリニッジヴィレッジでの活動を通じて次第に注目を集めるようになっていった彼は、伝説的プロデューサー、ジョン・ハモンドに認められ、コロムビアと契約。すでに書いたとおり、その年の秋には初の本格的なレコーディングに臨み、翌年春、『ボブ・ディラン』でスタートラインに立ったのだった。
録音に費やされたのは、わずか2日。基本はアコースティック・ギターとハーモニカだけの弾き語りで、バック・ミュージシャンやゲストは誰も参加していない。13曲中11曲は、のちにザ・バンドの『ザ・ラスト・ワルツ』でも歌った《ベイビー、レット・ミー・フォロウ・ユー・ダウン》、デイヴ・ヴァン・ロンクのアレンジを踏襲した《ハウス・オブ・ザ・ライジン・サン》、ブッカ・ホワイトの《フィキシン・トゥ・ダイ》などトラディショナルやブルースの名曲という構成で、オリジナルは彼をニューヨークに引き寄せた巨大な存在、ヴィディ・ガスリーに捧げた《ソング・トゥ・ウッディ》と《トーキン・ニューヨーク》の2曲のみ。フォーク・シンガーとして積み上げてきたもののすべてを、素直に、ストレートに、背伸びすることなく表現した作品と言えるだろう。
ギターやヴォーカルのスタイルはすでにほぼ完成の域に達していて、聴くたびに、「これが二十歳の若者なのか?」と驚かされる。その才能を見抜き、大手のレコード会社から世に送り出してしまったハモンドの決断力と行動力にも脱帽。それらが一つになり、次の大きな一歩へとつながっていったのだ。 [次回8/31(水)更新予定]