
寛仁親王家をめぐる混乱については、彬子さまが「月刊文藝春秋」(2015年7月号)に載せた手記「彬子女王 特別手記 母には三笠宮両殿下にお詫びしてほしい」でも触れている。
寛仁親王家は長い間一族の中で孤立していた。その要因であったのが、長年に亙る父と母との確執であり、それは父の死後も続いていた。母は父の生前である十年ほど前から病気療養という理由で私たちとは別居され、その間、皇族としての公務は休まれていた。私自身も十年以上きちんと母と話をすることができていない。父が亡くなってからも、何度も「話し合いを」と申し出たが、代理人を通じて拒否する旨が伝えられるだけであった。
彬子さまは信子さまについて、公務に復帰するのであれば、三笠宮両殿下にお詫びとご報告をしてほしい、ともつづっていた。
16年の三笠宮崇仁さまの葬儀でも、高齢の百合子さまに代わり、彬子さまが喪主代理を務めた。信子さまは、三笠宮さまが亡くなる1カ月ほど前に、入院中の聖路加国際病院を訪ねたが、このときも面会はできていない。もっとも、この一件も「面会できない状況だとご存じのはず」と、三笠宮家側は不信感を募らせたようだ。
信子さま「月10万円の皇族費しか…」と訴え

この年の夏には、信子さまと三笠宮家の間で、あるトラブルも起きていた。
彬子さまも妹の瑤子さまも不在中だった旧寛仁親王邸の三笠宮東邸を、信子さまが訪問。弁護士と鍵の専門業者を連れてきていた。
宮邸の職員は信子さまに「扉は開けられません」と繰り返したが、鍵の専門業者が通用口の鍵を開けて信子さまは邸内に入り、荷物をまとめて宮邸をあとにしたのだ。
事情を知る人物によれば、この「騒動」で信子さまはご自身の「正当性」を主張されていたようだ。
当時、信子さまは、ご自身に年間1525万円が支給されている皇族費について「月額10万円しか受け取っていない」と訴えており、日常の費用は三笠宮東邸に請求していたという。
「妃殿下は『月額10万円では、新しい物品をそろえることができない。自分の荷物を取るために鍵を開けざるを得なかった』と正当性を主張されていたようです」
宮内庁も、長年にわたる宮家内の愛憎劇に頭を悩ませているようだという。