石破茂氏がもう一人の父と仰ぎ見る、田中角栄氏。石破氏は25歳で銀行を退職すると、田中派(木曜クラブ)事務局の職員となり、「政治のイロハ」を学んだ

 では、もう一人の「父」、田中角栄氏は石破氏にとってどのような存在だったのか。倉重さんは言う。

「石破さんは角(田中角栄)さんの遺伝子を背負い、政治の道を進みます」

 そもそも石破氏には、政治家への道という考えはなかった。父・二朗氏から「政治家はお前みたいに人のいい奴に務まる仕事ではない」と言われ、政治家になるつもりはなかった。その石破氏を政治の道にいざなったのは田中氏だった。二朗氏は、10歳下の田中氏と深い絆で結ばれ「刎頸の友」だった。

 慶応大学を卒業した石破氏は1979年、三井銀行(現・三井住友銀行)に入行する。だが、銀行に入って3年目に二朗氏が他界。東京での葬儀で田中氏が葬儀委員長を務め、後日、石破氏はお礼を伝えるため田中氏の私邸を訪ねると、父の後を継いで政治家になるよう言われる。

 石破氏はまだ24歳。二朗氏は参議院議員で、参議院の被選挙権年齢は30歳。すぐに選挙に出られるわけではないのでそう答えると、田中氏は机をバーンと叩きつけ、「誰が参議院に出ろと言った、衆議院だ!」と、半ば強制され、政界入りをした。

「石破さんがまず角さんから学んだのは、選挙の仕方です。角さんの選挙は『ドブ板選挙』で、選挙区を一軒一軒、靴底を減らして歩き回るのが基本。石破さんも徹底的に仕込まれます」(倉重さん)

 石破氏は86年7月の衆院選で、自民党公認で旧鳥取全県区から出馬する。田中氏の教えを実践し、選挙区をひたすら回り、5万4千軒を訪ね、5万6534票を得て、当時、全国最年少となる29歳で初当選する。

 倉重さんが、石破氏が「田中遺伝子」をもっとも継いでいるというのが「対米政策」だ。「角さんは日米関係をそれなりに大事にしたけれど、歴代政権のようにアメリカに従属するのではなく、対米自立の構えでした。中国との関係を重視し、1972年に日中国交回復を実現します」

 石破氏も、かねてから日本は「独立した主権国家」だと述べ、「対等な日米関係」を築くべきだと訴えてきた。今年9月、石破氏は米有力シンクタンク「ハドソン研究所」に論文を投稿したが、そこでも持論である日米地位協定の改定に言及。協定の大本である日米安保条約を「非対称双務条約」だと指摘し、相互防衛条約へと変えた上で「対等な地位協定」の実現を図る必要があると訴えた。グアムに自衛隊を駐留させる案も示し「『在グアム自衛隊』の地位協定を在日米軍のものと同じものにすることも考えられる」と主張した。「アメリカに対する外交姿勢には、角さんの路線が出ています」(同)

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政治家同士の絆が大切、角栄的政治手法の対極