将棋界大合同の握手。向かって右から関根金次郎新会長、小菅剣之助氏(調停役)、神田辰之助八段、金易二郎八段、花田長太郎八段、海老塚薫氏(調停役)=1936年、東京・上野精養軒
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 注目対局や将棋界の動向について紹介する「今週の一局 ニュースな将棋」。専門的な視点から解説します。AERA2024年11月11日号より。

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 憲政史上、もっとも将棋が強い国会議員は誰か?

 将棋史に詳しい方であれば、答えはすぐに出るだろう。正解は小菅剣之助(1865-1944)。将棋八段だった小菅は1920(大正9)年、第14回衆議院議員総選挙で三重県第2区から大政党に属さず出馬し、当選。議員を1期務めた。

 もし、戦前の将棋界を描いた大河ドラマが制作されれば、小菅は主役級の人物として登場してもおかしくはない。そのスケールの大きな人生をたどってみよう。

 小菅は幕末の1865年、尾張(現在の愛知県)に生まれた。藤井聡太七冠にとっては、同郷の先人に当たる。

 新しい明治の時代、小菅少年は漢学修業のため、東京に出る。生来将棋好きだった小菅はそこで伊藤宗印十一世名人(1826-93)の門下となり、新進の指し手として、次第に頭角を現していった。もし小菅の青壮年期に現在のような実力制名人戦があれば、小菅は名実ともに将棋日本一の座を得ていただろう。

 しかし当時の将棋界は発展途上の段階にあり、将棋指しの社会的地位は低かった。小菅は実業の世界に転じ、悪戦苦闘を始める。米相場を張り、何度も失敗を繰り返したあと、ついに大成功を収め、立志伝中の人となった。

 将棋の方では1904年、准名人格の八段に昇段している。55歳のときには衆院選に当選。あとにも先にも、小菅ほど将棋の強い国会議員は存在しない。

 1935年。日本将棋連盟は神田辰之助七段の八段昇段をめぐって内部で対立が起こり、分裂という事態を招いていた。このとき「時の氏神」として仲裁役を請われたのが、将棋界から離れていた小菅だった。人格識見に優れた小菅の尽力により、将棋界は大同団結を果たす。この功績により、小菅には名誉名人の称号が贈られた。(ライター・松本博文)

AERA 2024年11月11日号