前作『壊れた自転車でぼくはゆく』から一年半ぶりの新刊です。今回は小説ではなく初めての新書。けれど思いは一緒です。傷むほどに感じてしまうために「弱者」と呼ばれ、独自の価値観で生きているために「間違っている」と糾弾されてしまう者たちの真実。それをフィクションではなくノンフィクションで描く。ぼくの中では、あまり違いはありません。ぼくの小説を読んだ方なら、「ああ、わたしは彼を知ってる」と思われるかもしれない。すべての小説に登場する主人公や脇役たちの原型がここにある。彼(すなわちぼく)は『いま、会いにゆきます』の巧や佑司であり、『そのときは彼によろしく』の智史であり、『壊れた自転車でぼくはゆく』の寛太でもある。ぼくはなぜ、あのような主人公たちの物語を書いたのか? というより、書かざるをえなかったのか? その理由が徐々に明かされてゆきます。執筆しながら新たに学んだこともたくさんありました。すべては無意識のなせるわざですが、その背後には「コンプレックスPTSD(心的外傷後ストレス障害)」という深い心の傷がありました。発達障害であること、アスペルガーやADHD(注意欠陥多動性障害)であることと同じくらい、ぼくのパーソナリティーに大きな影響を与えた子供時代の体験。病弱な母がまとう死の影に怯えながら暮らした日々。それが、いずれはパニック障害を引き起こし、数々の心身症を引き起こす原因のひとつとなっていく。けれども、この日々はまた、ぼくに別の感情も与えてくれました。母の身体を深く気遣うことで、ぼくはいたわりや共感の心を育むことができた。ぼくはこの感情をとても大切に感じています。気遣い、いたわること。あまりにもその感情が強すぎるために、実際以上に相手が脆く儚(はかな)い存在のように思えてしまう。愛した瞬間から喪失の予感にとらわれ、一秒たりとも無駄にはできないと思うようになる。それこそ傷むように感じるわけです。この激しい感情に促されるようにしてぼくは小説を書き始めました。治癒行為としての執筆。今回の本の中で、ぼくは全体の三分の一ほどをさいて、そこまでの道のりを詳しく綴っています。ぼくを生んだことがもとで身体を壊し臥(ふ)せりがちになってしまった母。そんな母とほとんど二人きりで送った奇妙な幼年期。あまりの多動多弁に、担任の先生から「三十年の教師生活で一番手の掛かる子」と嘆かれた少年期。勉強ができずクラスメートたちから「バカ」とあだなされた思春期。奥さんと出会った高校時代、そしてパニック障害を発症。様々な不具合を抱えながら過ごした青年期。奥さんの妊娠を機に小説を書き始め、それがやがては『いま、会いにゆきます』のミリオンセラーへと繋がっていく。さらには、ぼくの書いた小説が世界の様々な国で翻訳出版され、人種や国境を超えて愛されていったこと。本書の中で、ぼくはこう書きました。「このあまりに攻撃的な世界で、生きづらさを感じている人々。戦うための拳を持たない、生まれながらの避難民たち。弱い者、拙い者。ひとと違っているために、『間違っている』と責められ、自分を信じることができなくなっている者。(中略)そういうひとたちのために、ぼくの小説はあるんだと思います」。それこそがぼくの小説が世界中のひとたちに受け入れてもらえたことの理由なんだと思います。どの国にもぼくの「仲間」はいます。彼らがぼくの小説を求めてくれた。
続く第二章で、ぼくは自分の極端な個性を「障害」として見るのではなく、ひとつの進化的戦略と考え、いくつかの仮説を挙げてみました。とくに強調したかったのは、「ぼくは人間の原型である」という考え。当事者というのは、ある種の直感で自分の真の姿を見抜きます(LGBT[性的少数者]のひとたちなんかもそうですよね)。ぼくはいつも強い違和感を感じていました。自分はまわりのひとたちとはなにかが違う。直感は「ぼくはサルなんだ」と告げています。高いところに登ることが三度の飯よりも好きで、緑と水がないと息が詰まりそうになる。あるときは大雨の森の中を全裸に近い姿で駆け回ったこともありました(あの歓喜といったら!)。高度な社会性を獲得した近代人よりは、むしろサルに近いと感じる心。ゆえにプライドも虚栄心もヒエラルキーの感覚もない。それを不適応と見るのか、完全なる自由と見るのか。
第三章では、この脳の偏りがどのように創作に影響を与えているのかってことをかなり突っ込んで書いてます。キーワードは「境界の喪失」。それこそが神話や宗教、お伽噺の正体なのだと仮定して、ユングやフロイトの名前まで引っ張り出し、ついにはぼくの全ての小説は「臨死体験」だった! と結論しています。とんでもない妄想的仮説ですが、けっこう本気です。