○作中に遊女の年季のことが何回か登場します。吉原は官許の遊郭であり、建前上は人身売買が禁じられていました。そのため身売りの際もあくまで年季奉公という形にして証文を取り交わし、「苦界十年二十七明け」すなわち概ね二十七歳まで勤め上げれば年季が明けるとされていました。
〈二十八からふんどしが白くなり〉
一般女性が着用する湯文字(ふんどし)は白か浅葱色でしたが、遊女は緋縮緬のものを身に着けていました。二十八歳で年季が明けて吉原を出たので、湯文字が赤から白に変わったということを詠んだ川柳です。
〈何文の足袋やら二十七の暮〉
作中で触れたように、吉原の遊女には足袋を履く習慣がありませんでした。そのため年季が明けた時には自分の足袋のサイズが分からなくなっていた、というわけです。
○続いては心中立てです。心中立てとは遊女が客への真心を誓い、それを証拠立てることです。その手段の一つに彫物がありました。客の名が徳兵衛なら「トクサマ命」などと二の腕に入墨をします。その客とは別に新しく金蔓の客や情夫ができた場合には、
〈二の腕を火葬にするは色と欲〉
という具合に、古い客の名に灸を据えて焼き消し、新しい馴染みの名の彫物をしました。
心中立てのうち最も真実を表わすものとして、指切りがありました。遊女が小指を切断して客に送ったのです。
〈もめるはづ花よめの指九本あり〉
遊女上がりの嫁の指が九本しかないのを見て、舅や姑が大騒ぎしたのでしょう。聞くだに怖気立つような恐ろしい慣習ですが、実際には焼場の死人から切り取った指や新粉細工の偽物の指で代用していたようで、騙された客は、
〈此小指さては新粉かエゝ無念〉
と、地団太を踏むことになりました。
ところで、近年「吉原は江戸文化の発信地だった」「花魁は江戸のファッションリーダー」等の肯定的な評価が散見されます。そうした面があったことも確かでしょうが、遊女たちにとってはやはり苦界以外の何物でもなかったはずで、過大評価は禁物ではないかと愚考します。拙筆ではありますが、可能な限り遊女たちの苦衷や辛酸を鮮明に描き出すよう努めたつもりですので、そうした作者の意図を汲み取っていただけたなら幸いです。