6年ぶりの長編小説『街とその不確かな壁』を読む前に、村上春樹作品の魅力に改めて浸ってみてはいかがだろう。総合地球環境学研究所所長・山極壽一さんが村上作品の魅力を語ってくれた。AERA 2023年4月17日号の記事を紹介する。
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村上春樹さんの小説を初めて手に取ったのは1982年ごろ、『羊をめぐる冒険』でした。羊が人間の体の中に入っちゃったという「羊男」を登場させることで、人間の体や心の中に隠されている「何か人間的でないもの」──言葉を発する以前から願望として持っていた「他の動物の力を借りたい」という思いなどを暴き、人間の世界だけではない世界も存在することを描き出していた。唸(うな)りました。
その後の作品にも「羊男」は何度も登場しますが、とにかく村上さんは奇想天外で「人間以外の何か」というところに突き抜けていく。その突き抜ける通路がいつも井戸やトンネルなんです。人間は視覚的な動物なのでそれをいったん閉じ、暗闇を通らないと人間以外の世界を見ることはできない。そういう思いを常に持っている作家なのだと思います。
作品には音楽を感じることもあります。対話がすごくたくさん出てきてリズムがあり、読んでいるうちに読者は自分が主人公になってしまう。そういう素敵な魔力があります。
加えて「踊る」も村上さんのテーマの一つです。『ダンス・ダンス・ダンス』でも羊男が「踊るんだ。踊り続けるんだ」と言いますよね。村上小説の主人公は多くが「受け身」。たいてい何かがやってきて踊らされてしまう。でも、それを宿命だと思って、むしろ積極的に流れに乗っていくという展開が多い。何もしないのに妻やガールフレンドが出て行ったとか、友人が自死してしまったとか。自分の力の働かないところで何かが起こっていることを暗示しているけれども、自分ではそこに到達できない。ただ、踊るしかない。
その「踊るしかない」自覚は何かと言うと、村上さん自身が1960年代の学生運動に巻き込まれ「強い言葉」にひきずられてきたけど、もうそんな言葉にはだまされないぞという強い思いです。そして自分をいったん井戸の底に沈め、世間の流れに押し流されながらも自分で踊らなければならなかった歴史を反映しているという気がします。彼は小説を書きながら音楽を奏で、踊っているんです。