高校時代に観たイタリア映画やフランス映画で、ベランダや庭に花があって「生活の質」を感じた。日本にも「質の時代」がくるに違いないと思い、「快適生活を支援しよう」という標語を決めた(写真:街風隆雄)

 LEDは、園芸用品のヒットに合わせ、夜間のガーデニング用につくっていた。主力工場は中国の大連にあり、大震災から半月後、山形空港まで車でいって飛行機で羽田へ飛び、成田へいって大連行きの便に乗る。着くと大号令をかけ、増産体制を動かした。他社も3カ月ほど後でつくり始めたが、スタートダッシュの違いは大きい。早々と生産設備を発注し、従業員も増やし、工場内の配置も変えた。2012年8月には、仙台市にまるごとLED照明の「アイリス青葉ビル」も開く。

 自動車や住宅のような大きな市場ではないが、市場が小さくてもいち早く押さえる。模倣者には、常に先をいく新基軸を打ち出せば、追随は振り切れる。「そんなものをつくっても、儲からない」と否定する声は、過去の成功事例への安住で、衰退が待つだけ。過去からの「非連続」こそ、事業家が取るべき道と、布施高校の校舎の前に立って、確認した。

 世の中のニーズに応えたいとの思いは、社員たちにも強い。その方向性を決めるのが自分の責務と思って、「社長として幹と枝はつくるが、葉や花はきみたちで考えろ」と呼びかけてきた。具体的に何をつくるかのアイデアは、社員たちが出す。出てきたものすべてはできないから、優先順位を新商品の開発会議で決めている。

 89年12月、本社を東大阪市から仙台市へ移した。正装に似合う真珠のネックレスが、ミニスカートに代表されるカジュアルな服の時代に入ると、売れ行きが急減。真珠養殖用の浮き球の需要も、落ち込む。そのとき、カキやホタテなどの養殖をしていた東北や北海道に新市場を求め、立て直した。その縁から、宮城県に新鋭工場を次々につくり、経営の拠点にも選んだ。

 東大阪市の工場の跡地には、関西の営業部隊などが入る新しいビルを建てた。『源流Again』で寄って玄関を入ると、ロビーの左奥に父の胸像が置いてある。昔の写真をもとに、つくってもらったそうだ。この連載で取り上げさせていただいた「トップ」の方々には、父を早く亡くした方が何人かいた。それでも子ども心に「働く父」から様々なことを感じ取った、と言った。大山健太郎さんも、その一人だ。

 父とはわずか19年しか一緒に過ごしていないが、胸像をみれば、「働く父」から得たものが蘇り、気持ちは緩まない。ビジネスパーソンとしての『源流』を生んでくれた高校での日々も、蘇る。『源流』は、ここで父に背中を押されて、日本列島を北進した。(ジャーナリスト・街風隆雄)

AERA 2024年10月21日号

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