哲学者 内田樹
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 哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。

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 ネットで発信するときは旧Twitterには「身辺雑記と愚痴」を、ブログにはある程度まとまった「演説」を書くことにしているのだが、どちらの媒体においても私は「炎上」ということを経験したことがない。

 時々知り合いから「先日の内田さんの発言が炎上してますよ」というお知らせを頂くのだけれど、私は気づかない。ネットに書き込まれた読者の反応を読まないからである。これはネット上に投稿するようになってからずっと変わらない。

「私の考え方に賛成」という人がいるのを知ることはうれしい。でもそれを通じて私の考えが変わることはない。「内田の考え方に反対」という人も(たくさん)いる。ただ、その批判の多くは私に不快感や屈辱感を与える目的で書かれており、私の書き物の質を上げたいからではない。そんなものを読むために時間を割くほど人生は長くない。

 そう言うと驚かれる。「自分が他者からどう評価されているか興味がないんですか?」と訊かれる。「ありません」と答えるとさらに驚かれる。ほんとうにそうなのだ。子どもの頃からそうだった。中学生の頃から「変なやつ」と言われ、「そんなふざけた生き方をしていたら、世間が許さないぞ」と長じても叱られ続けた。でも、ずっと「そんな生き方」をしてきた。気が付けば74歳になっていた。今さら変えられない。

 他人の意見に興味がないのは、自分がどれくらい無知で、どれくらい偏見に満ちた人間かは私自身がよく知っているからである。私は知らないことを「知っている」とは言わないし、「私は正しい」とも言わない。語るのは「限定的な知しか持たない、性根の歪んだ個人の意見」である。だから「お前は限定的な知しか持たない、性根の歪んだ野郎だ」と言われても「はい」という以外に返答のしようがない。

 そもそも私は「論争」ということをしたことがない。いろいろな方から手厳しく批判されたけれど、反論しない。先方が正しいなら反論すべきでないし、先方がお門違いなら反論するに及ばない。正否を決めるのは当事者ではなく、読者たちである。そう思っているので「炎上」とは無縁なのである。

AERA 2024年10月21日号