秦始皇本紀では、始皇二三年に楚王負芻が捕虜となって項燕、昌平君の亡命政権が立ち、翌二四年に王翦、蒙武の秦軍が楚軍を滅ぼし、昌平君の死、項燕将軍の自殺をもって楚国の滅亡としている。

 しかし『史記』六国年表、楚世家、王翦列伝、蒙恬列伝では、始皇二三年に王翦、蒙武軍が項燕将軍を殺し、翌二四年に楚王負芻を捕虜にして楚は滅亡したとする。楚の滅亡は始皇二四年で共通しているが、楚王負芻を捕虜にしたことで滅んだのか、亡命政権の楚王昌平君の死と項燕の自殺をもって滅んだのかで異なっている。

 一九七五年に出土した睡虎地秦簡は、楚の最期に新たな事実を提供してくれた。その『編年記』には次のような記述があった。

「廿三年、興、攻荊、□□守陽□死。四月。昌文君死」(廿四年)□□□王□□(□の箇所は不明)。

 始皇二三年に本格的な対楚戦が始まり、四月に昌平君とともに秦王を支えた昌文君が死亡したことがはじめてわかった。昌文君は楚人であっても秦王政を支えた重要人物であったことから、秦の『編年記』にその死が記載されたのであろう。

 『編年記』では翌二四年に、何らかの王の動向が記されている。年代から見ても楚王負芻の最期が記されていたのであろう。

《朝日新書『始皇帝の戦争と将軍たち』では、魏・韓・斉など「六国」を滅ぼすまでの経緯を解説。羌瘣(きょうかい)や王賁(おうほん)や李牧(りぼく)など、将軍たちの史実における活躍も詳述している》

始皇帝の戦争と将軍たち 秦の中華統一を支えた近臣軍団 (朝日新書)
暮らしとモノ班 for promotion
大型セールAmazonプライム感謝祭は10/19(土)・20(日)開催!先行セール、目玉商品をご紹介