兵馬俑(写真:ロイター/アフロ)
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 映画『キングダム大将軍の帰還』やドラマ『始皇帝 天下統一』など、始皇帝をモデルにした映像作品が人気を博している。いずれも秦の統一戦争の過程を描いているが、秦に対抗した大国「楚(そ)」を滅ぼした将軍は誰だったのだろうか。

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 映画『キングダム』の中国史監修を務めた学習院大学名誉教授・鶴間和幸さんは、著書『始皇帝の戦争と将軍たち』の中で、「滅亡をめぐる謎」について言及している。新刊『始皇帝の戦争と将軍たち』(朝日新書)から一部抜粋して解説する。

【『キングダム』よりも先の史実に触れています。ネタバレにご注意ください】

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 始皇二三(前二二四)年から二年間、秦は対楚戦で本格的に動き始めた。残る斉・燕の国との合従はありえない情勢であったため、秦は攻め時と踏んだのだろう。

 秦の前線基地は南郡であったが、韓を滅ぼしてからは潁川郡、南陽郡も南郡と連携する態勢が出来ていた。秦軍は楚の旧都の陳(郢陳)と都の寿春に迫っていたが、ここからの楚の抵抗は激しかった。

 すでに述べたように、当初は若き将軍の李信と蒙恬が楚に送られた。李信は燕王と燕太子を追って丹の首を得た功績があったばかりであり、その勢いから楚に派遣された。対楚戦には六〇万の兵が必要であるという老将軍の王翦を差し置いて、二〇万人の軍勢で蒙恬と出陣したものの、楚に敗れることになる。

 李信は陳を越え平輿(へいよ)に、蒙恬は寝(しん)の地を攻め、二軍に分散したのが敗戦の理由であろう。両軍が城父(じょうほ)で合流したところ、三日三晩頓舎(宿営)もせずに果敢に進撃してきた楚軍に奇襲され、秦軍は敗走した。若い李信と蒙恬には慢心があったのだろう。

 李信と蒙恬の敗戦を受け、六〇万の王翦と蒙武が対楚戦に出撃し、楚軍を破り、将軍項燕を殺し、楚王負芻を捕虜にした。こうして楚は滅亡し、秦の占領郡が置かれた。

 楚の滅亡は始皇二四(前二二三)年のことである。

 楚の滅亡をめぐっては、『史記』の始皇二三年、二四年の両年の記事に混乱がある。楚王の負芻が捕虜となった後、将軍項燕が昌平君を立てて楚王とした亡命政権が、淮南(わいなん)で秦に反乱を起こしたということが秦始皇本紀に記述されている。

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「楚」の滅亡をめぐる謎