「将(ひき)いる」とはその地の占領郡の兵士を率いるという意味である。上地とは不明であるが、秦の上党郡のことかと思われる。上党郡の兵を率いて山越えして井陘の地に降り、北から邯鄲を目指した。楊端和は黄河の北岸の河内の南から邯鄲を目指し、いち早く邯鄲城を包囲した。
羌瘣が「趙を伐ち」というのは漠然と趙を伐ったというだけで、どこから邯鄲を攻めたのか伝えていない。おそらく占領郡の東郡から東に回って邯鄲を攻めたのであろう。
始皇十九年に王翦と羌瘣が「尽く趙地の東陽を定め取りて趙王を得」というのは、邯鄲から東に逃亡する趙王を東方で捕らえたことを言っている。秦の三軍の邯鄲包囲網の勝利であり、このときの趙国はすでに邯鄲を中心とする国土に狭まっており、秦の占領郡にも包囲されていたのである。
邯鄲陥落からさかのぼること二年、始皇十八年は趙の年号では趙王遷七年であり、趙王遷の治世下であった。秦の趙攻撃に際して迎えたのは趙の大将軍の李牧と将軍司馬尚(しばしょう)であった。
しかし趙王の寵愛する臣下の郭開(かくかい)が秦からの間金を受け取って反間(スパイ)となり、李牧と司馬尚の反逆を讒言した。趙王は李牧と司馬尚に交替を命じたが、李牧は拒否して斬殺された。
もしこれまで秦軍に常勝していた李牧が王翦らに対抗していれば、情勢は少し変わっていたかもしれない。秦の隠密外交の勝利でもあった。
《朝日新書『始皇帝の戦争と将軍たち』では、魏・楚・斉など「六国」を滅ぼすまでの経緯を解説。羌瘣(きょうかい)や龐煖(ほうけん)など、将軍たちの史実における活躍も詳述している》