秦始皇帝の兵馬俑(写真:Zoonar/アフロ)
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 映画『キングダム大将軍の帰還』やドラマ『始皇帝 天下統一』など、始皇帝をモデルにした映像作品が人気を集めている。いずれも秦の統一戦争の過程を描いているが、六国の一つ「趙(ちょう)」を滅ぼした将軍は誰だったのだろうか。

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 映画『キングダム』の中国史監修を務めた学習院大学名誉教授・鶴間和幸さんは、著書『始皇帝の戦争と将軍たち』の中で、趙攻めの背景に、「秦の将軍たちの巧みな連携があった」と指摘する。新刊『始皇帝の戦争と将軍たち』(朝日新書)から一部抜粋して解説する。

【一部、『キングダム』よりも先の史実に触れています。ネタバレにご注意ください】

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 始皇19年、王翦(おうせん)将軍の率いる秦軍は趙の都・邯鄲(かんたん)を攻撃し、趙王の遷を捕虜とした。趙の公子で嫡子の趙嘉は、一族数百人を連れて代(だい)の地に逃れ、亡命政権を立てることになった。代国は始皇25年まで6年間も続いたが、秦の王賁将軍が代王の趙嘉を捕らえ、趙はこのときはじめて滅ぶことになる。『史記』六国年表は「秦将王賁、王の嘉を虜とし、秦、趙を滅ぼす」と記している。

 秦が趙を滅ぼした時期の地図を作成してみると、すでに秦の占領郡がいかに趙の国土を包囲していたのかがわかる(書籍に記載有り)。趙の西と南は秦の占領郡が包囲していたので、秦は趙都の邯鄲には西と南の両方向から攻めることができた。

 邯鄲を攻めたのは王翦軍だけでなく、羌瘣(きょうかい)と楊端和(ようたんわ)も加わっていた。『史記』秦始皇本紀の記事は前年の始皇十八年に「大いに兵を興して趙を攻む」と記されている。韓を滅ぼした勢いで、目標は趙に向けられた。「大いに兵を興す」とは大動員令を発したことを示している。

 記事には、王翦と楊端和、羌瘣の連帯した動きが記されている。王翦軍は「王翦、上地を将(ひき)い、井陘(せいけい)に下り」、楊端和は「河内(かない)を将い」、羌瘣は「趙を伐ち」、さらに楊端和が「邯鄲城を圍(かこ)む」と記されている。

始皇帝の戦争と将軍たち 秦の中華統一を支えた近臣軍団 (朝日新書)
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もし、趙の李牧が生きていれば……