BOOKSTANDがお届けする「本屋大賞2023」ノミネート全10作の紹介。今回取り上げるのは、安壇美緒(あだん・みお)著『ラブカは静かに弓を持つ』です。
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皆さんはスパイ作品と聞いて、どのような映画や小説を思い浮かべるでしょうか。今回紹介する『ラブカは静かに弓を持つ』は、これまでのスパイ作品のイメージを覆すような一作と言えるかもしれません。なぜなら同作は「音楽×スパイ」という異色の組み合わせだからです。
国内の音楽著作権を管理する団体に勤める橘 樹(たちばな・いつき)はある日、上司の塩坪から呼び出され、業界最大手の「ミカサ音楽教室」への潜入調査を命じられます。目的は、今後想定される訴訟に備えて、ミカサが著作権法の演奏権を侵害している証拠をつかむこと。過去にチェロを習っていた経験があることから、橘に白羽の矢が立ったのでした。こうして橘は、身分を隠してミカサ音楽教室二子玉川店に入会。チェロ講師の浅葉のもとに週一回通い始めます。スパイとして、レッスンの様子を毎回ひそかに録音しながら――。
橘は当初、自分にとって潜入捜査は大したことではないと思っていました。幼少期にある事件に遭遇したことで今もトラウマを抱える彼は、自ら人を避けるようなところがあり、ふだん気軽に連絡を取り合う友人もいません。そんな彼にとってこれは仕事の一環でしかなく、「たとえ二年間通ったところで、そこで特別な人間関係など築けはしないだろう」(同書より)と考えていたのです。けれど、意外にもそれは誤算でした。講師の浅葉や教室で出会った音楽仲間たちと交流を重ねるにつれ、そして奏でることの楽しさを再び知るにつれ、橘の心には温かなものが芽生え始め、次第に嘘をついていることに罪悪感を抱いて思い悩むようになります。
タイトルにもある「ラブカ」とは深海に生息するサメの一種。作中では、橘が発表会で演奏する曲として『戦慄き(わななき)のラブカ』という映画の名前が出てきます。この映画は、有能な諜報員の主人公が潜入先の敵国で一般人を装ううちに、隣人と楽しく酒を飲むような普通の暮らしを知ってしまい、苦悩するというストーリー。ラブカは三年半も妊娠期間があることから、この映画では主人公の潜入期間になぞらえて、彼の隠語が「ラブカ」とされているのです。それと同じく、まさに橘こそがラブカ。暗い海の底で息を潜めて生きる深海魚のようにひとり孤独に生きてきた人間が光を見つけて変わっていく姿は、人や音楽の持つ力のすばらしさを教えてくれます。
同作にはスパイ作品ではお決まりの、国家のために暗躍する主人公も派手なアクションシーンも登場しません。けれど、主人公の葛藤や潜入調査のゆくえは静謐な中にも読者を惹きつけるスリリングさがあり、まごうことなきスパイ作品に仕上がっています。読後にはきっと、美しい演奏や映像を観終わったあとのような豊かな余韻が皆さんの心にも残ることでしょう。
[文・鷺ノ宮やよい]