ガザのナセル病院の手術室で術後の重傷乳児を診る中嶋優子医師(中央)ら=11月20日(写真/国境なき医師団提供)
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 昨年10月7日、イスラム組織ハマスによる攻撃への報復として、イスラエルによるパレスチナ・ガザ地区への攻撃が始まって1年。いまも攻撃は続き、これまでに4万人を超える犠牲者が出ている。さらに、食糧不足や衛生面の悪化など人びとの生活状況は深刻だ。昨年10月の攻撃後に届いた派遣要請に応じ、11~12月にガザに入った国境なき医師団(MSF)日本の会長で救急医・麻酔科医の中嶋優子さんは、帰任後も取材や講演等で現地の状況を証言し、停戦を訴え続けている。当時の日記をもとに、全10回の連載で現地の状況を伝える。

【写真】【ガザ危機1年】イスラエルによる家屋攻撃の現場を見つめるパレスチナ人の少年

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《入った!!南は驚くほど静か…》                                          

 (2023年)11月14日の朝、ラファの検問所からようやくガザ地区に入ることができた。チームは多国籍のメンバーで構成された13人。フランスから5人、ベルギー、スペイン、ギリシャ、イギリス、アイルランド、アルゼンチン、メキシコ、そして日本から私。独立してどこでも医療活動が出来ることを想定して構成された、10月7日以降に国境なき医師団として初めてガザに入った緊急援助チームである。皆、ガザへの派遣がいかに今までと色々な意味でレベルが違うことを重々知っての志願だった。

 派遣が決まって2日後にはアメリカ・アトランタを出発し、ガザの隣国のエジプト入りしたが、そこからなかなかガザに入る許可がおりず、半月もの間、カイロやエジプトの国境付近でこの時を待ち続けた。

 カイロは「喧騒」の街だった。人や車が行き交い、クラクションも鳴り響き、騒がしかった。それに比べてラファは、検問所を越えると空き地が広がり、車も人も、あまりいなくて静まり返っていた。ただ、「ブーン」というドローンが飛ぶ不気味な音は、ずっと聞こえていた。

 持ち物は、私物を詰めたリュックやバッグ、そのほかにエジプトのカイロで国境なき医師団のロジスティシャンスタッフが調達してくれた生活用品10日分が入ったアイスホッケーバッグのような大きな車輪付きバッグ。水や缶詰などの食料、衛生用品などが詰まっていてかなり重く、ガラガラ引きながら境界を通過し、現地スタッフが迎えに来てくれて国境なき医師団の車に乗り込んだ。

 怖さはなかった。ようやく入れたという思いの方が強かった。できる事は何でもやってたくさん働くぞ、とは思っていたが、ガザの病院がどのような状況なのか、医療用資材や薬剤はあるのか、全く何もわからない状況だった。

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診察室の床に寝袋を敷いて眠る