前園真聖さん(撮影・平尾類)
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 サッカー解説やタレントとして活躍する前園真聖(まさきよ)さん(50)。現役時代には、1996年の米アトランタ五輪に日本代表(U-23)の主将として出場し、ブラジルを破る快挙を成し遂げ、世界に大きな衝撃を与えた。当時22歳の前園さんには、サッカー選手としての輝かしい未来が開けたかに見えたが、その後のW杯で代表に名を連ねることはなかった。今回のインタビュー【前編】では、サッカー人生の大きな転機、紆余曲折を経たキャリアについて語ってもらった

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――鹿児島実業で1年からレギュラーをつかみ、2年の高校選手権で準優勝と華々しい活躍で、92年に横浜フリューゲルス(現、横浜F・マリノス)に入団しました。ただ、1年目はトップ(1軍)で公式戦出場がありませんでした

 1年目のシーズン中にトップに上がれるだろうなと思ったら1試合も出場できず、自分の中で思い描くものと違うなあとモヤモヤしていましたね。戦術に慣れていかなきゃいけないし、ドリブル、パスの状況判断の部分で戸惑いがありました。当時のJリーグは「高卒は3年、大卒は2年で結果を残さなければクビ」と言われていた時代だったので、危機感はありました。

マラドーナが好きでアルゼンチンに留学

――1年目のオフシーズンにアルゼンチンのヒムナシアに留学しました

 僕は幼少期からディエゴ・マラドーナが大好きで、チームに留学制度があったのでアルゼンチンを希望しました。3カ月程度と短い期間でしたけど、サッカー人生の大きな転機になりました。試合に出られない選手たちは僕より給料は少なく、恵まれた待遇ではなかった。生活がかかっているから必死で、練習からレギュラーの選手にガツガツ当たるんです。ハングリー精神がすごくて「これがプロなんだ」と。

――その後、サッカーへの向き合い方はどう変わりましたか?

 93年はJリーグ初年度で「開幕までに戻ってこい」とチームに言われたけど、「アルゼンチンに残って戦いたい。ここでレギュラーを獲りたい」と伝えました。それぐらい充実していましたね。結局帰国することになって、開幕戦は三ツ沢(横浜市)のスタンドで見ていましたが、「あのピッチに立つんだ」とサッカーに向き合う姿勢が留学前と変わりました。先輩にも遠慮しないで主張するようになりました。

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期待外れの結果で叩かれ……「メディアとの確執があった」