日本はスケボーカルチャーに特に厳しい国と言われる。普及に力を入れるほか、伸び伸びと滑れるパークの建設も夢見る[撮影:村松賢一/hair & make up:Taro Yoshida/costume:Nike SB]
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 苦しみ抜いた末の五輪2連覇を達成した堀米雄斗選手。東京五輪後の3年間の「地獄」と向き合ったことで、強くなったという。AERA 2024年9月16日号より。

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──スケートボードは東京五輪から採用された新種目。6歳から本格的にボードに乗りはじめた堀米にとって、五輪は古くから目指していた場ではない。ただ、16年に東京五輪でのスケートボード採用が決まり、19年に強化選手に選ばれる。堀米は導かれるように、五輪を夢見るようになった。

堀米「スケートボードがオリンピック種目に選ばれ、それも地元の江東区で開かれることが決まって、その舞台が大きな目標になりました。東京で勝ったときは本当にうれしかった。一方で、ひとつの大きな夢が終わった後、スケートボーダーとしてどう活動していくか葛藤することもありました。競技は好きだったけれど、僕はスケボーのカルチャーの部分に強く惹かれていたし、やりたいことが見えなくなったんです。でも、オリンピックで結果を出すことでスケボーのカルチャーを広められたり、スケボーの魅力を多くの人に知ってもらったりできる面もあると思う。多くの人のサポートもあって、パリを目指すようになりました」

──東京五輪後の3年間を堀米は「地獄だった」と言う。五輪を目指すアスリートとしては、ルール変更に苦しめられた。堀米はよく、「ランが苦手」と表現される。東京五輪の際はラン2回、ベストトリック5回の合計7回の演技のうち、高得点だった4回の試技がスコアとして採用される方式で、堀米はランの得点が伸びなかったが、ベストトリックで次々に難度の高い技を決め、金メダルに輝いた。一方、パリではランのスコアも必ず得点に反映されるルールに変更された。

堀米「ランに苦手意識があるわけではありません。ただ、ランはいくつもの技を連続して決めなければならず、ひとつのミスがあると大きくスコアが下がってしまいます。プレッシャーがある中でミスなく演じ切るのはやはり難しくて、それで見る人には「堀米はランが苦手」と思われているのかな。

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川口穣

川口穣

ノンフィクションライター、AERA記者。著書『防災アプリ特務機関NERV 最強の災害情報インフラをつくったホワイトハッカーの10年』(平凡社)で第21回新潮ドキュメント賞候補。宮城県石巻市の災害公営住宅向け無料情報紙「石巻復興きずな新聞」副編集長も務める。

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