『日本書紀』から『日本三代実録』に至る六部は勅撰、つまり天皇の命で編纂された、日本古代史の根本史料だ。
 しかしたいていの人は『日本書紀』がせいぜいで、他はちゃんと読んだことがないのではないか。私もそうだ。また『日本書紀』の前半は神話と地続きで、歴史書と呼ぶのに違和感を覚える人もいるだろう。しかし編纂者も読み手も国政に関わる貴族なので、あまりに恣意的な編纂はできなかった。また勅撰なので、公文書も十分に活用して書かれている。
 歴史を古く見せるための延伸や、政治闘争の実態歪曲などの疑惑もあるが、本書はそれらの具体事例に触れながら、『六国史』の実態を解き明かすと共に、「歴史書の意味」も問うている。
『日本書紀』では、神功皇后はいたのか否か、壬申の乱直前に大友皇子は即位していたのか否かなど、近現代まで議論の続く問題が、どう表現されていたか。なぜそんな表現になったのか。『続日本紀』では、前半と後半で相矛盾する記述が見られるが、それはなぜか。『日本後紀』には手厳しい人物評が見られるが、その真意はどこにあったのか。
 こうした問いを通して浮かび上がるのは、『六国史』は起きた事柄は忠実に記そうとの記録主義を重んじる一方、評には時の天皇の意向や当時の政治状況が色濃く反映されているということだ。それは勅撰による国史編纂が行われなくなった後も変わらなかった。
 摂関政治が常態化すると、天皇中心の国史への意欲が薄れ、各氏の『日記』がその代替となった。これは歴史の私有化だった。藤原氏中心の『栄花物語』は、その延長上にあるだろう。また中世には、『六国史』は神道研究に利用され、改竄も試みられた。江戸時代に好古の学としてはじまった国学が、やがて尊王運動に結びついたことはよく知られている。
 歴史編纂は「政治」だ。その緊張感をリアルに教えてくれる本書は、とても現代的だ。

週刊朝日 2016年4月15日号