ジャクソン・ブラウンとグレン・フライが《TAKE IT EASY》を書いたと思われる場所
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ジャクソン・ブラウンとグレン・フライが《TAKE IT EASY》を書いたと思われる場所
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『EAGLES』EAGLES
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『EAGLES』EAGLES
『DESPERADO』EAGLES
『DESPERADO』EAGLES

 今年(2016年)2月15日、ロサンゼルスで開催された第58回グラミー賞授賞式で、ジャクソン・ブラウンとイーグルスのメンバー(ドン・ヘンリー、バーニー・リードン、ジョー・ウォルシュ、ティモシー・B・シュミット)が《テイク・イット・イージー》を歌っている。1月18日に67歳で亡くなったグレン・フライに捧げたスペシャル・パフォーマンスだ。当日は、会場となったステイプルズ・センターのプレスルームに置かれたモニターでそのライヴを観たのだが、登場したころから同時進行で追いかけてきた人たちなので、感慨深いものがあった。

 この連載ですでに何度か書いてきたとおり、60年代から70年代にかけてのロサンゼルス産音楽は、そのほとんどが、ビーチ・ボーイズやザ・バーズの成功に刺激を受けて西を目指すこととなった若者たちによってつくられたものだった。「ロサンゼルスのロック」という言葉を耳や目にしたとき、多くの人たちが真っ先に思い浮かべるはずのイーグルスも例外ではない。

 グレン・フライは、1948年、ミシガン州デトロイトの生まれ。ローカル・ヒーローだったボブ・シーガーとも交流のあった彼は、二十歳のときLAに向かい、同郷のJ.D.サウザーとアコースティック・デュオ、ロングブランチ・ペニーホイッスルを結成。トルヴァドゥールのステージにも立つようになっている。

 そういった活動を通じてジャクソン・ブラウンとも知りあい、この間の一時期、彼らは、比較的家賃が安かったというエコパーク(ダウンタウンの西側)の同じアパートで暮らしていた。ベッドとギターと冷蔵庫しかないグレンとJ.D.の部屋の下がジャクソンの部屋で、そこにはピアノもあった。同じフレーズを納得できるまで何度も繰り返して弾き、歌い、曲を仕上げていくその姿勢から、グレンは多くのことを学んだという。

 正確な時期はわからないが、ジャクソンがそれでもまだ納得できずにいる曲を抱えていたとき、グレンが「アリゾナ州ウィズロウの街角に立っていると、真っ赤なピックアップに乗った女の子が声をかけてきた」という歌詞を提案し、ようやくその曲は完成をみた。それが、《テイク・イット・イージー》だったのだ。

 トルヴァドゥールで、グレンはまた、ドン・ヘンリーとも出会っていた。テキサス州出身で1947年生まれのドンは、シャイロというバンドの一員としてロサンゼルスに向かい、71年の解散後、やはりトルヴァドゥールで知りあったリンダ・ロンシュタットのツアー・バンドにグレンと参加。それが、イーグルスの結成へとつながっている。

 そのとき、彼らが声をかけたのは、ギターだけでなくバンジョーやマンドリン、スティールギターも弾きこなすマルチ弦楽器奏者で、フライング・ブリトー・ブラザーズでも働いたバーニー・リードンと、ポコの初代ベーシストだったランディ・マイズナー。彼らもまた、ロサンゼルスの生まれではなかった。

 コロラド州アスペンの、スキー客を相手にしたクラブなどでのリハーサルを兼ねたライヴをへて、グリン・ジョンズのプロデュースのもとで録音した最初のアルバム『イーグルス』を世に送り出したのは、1972年夏。《テイク・イット・イージー》はそこからの先行シングルとしてリリースされ、すぐに大きなヒットを記録しているから、一般的にはイーグルスの曲と思われているが、実際には、すでに書いたような経緯で生まれたものなのだ。ジャクソンものちに彼自身のヴァージョンをアルバム『フォー・エヴリマン』に収めている。

 翌73年春発表の『デスペラード』は、開拓時代のアウトローとロックンローラーのイメージを重ねあわせて描いたコンセプト・アルバム。ナチュラリストで、非暴力主義の元祖ともいわれているヘンリー・デイヴィッド・ソロウから強い影響を受けたと語るドン・ヘンリーがここでバンドの顔となり、彼とグレンが書く一連のヒット曲によってイーグルスは一気に巨大化していく。 [次回4/13(水)更新予定]