野球部では顧問の先生が「きみにはきみのできることがあるだろう」と、車いすでもできるスコアラーの役割をくれた。ありがたい。でも、やっぱり球友と同じように打ちたい、投げたい、との思いが募る。
すると、他校との練習試合で監督が突然、「代打、垣内」と指名した。「このままでは3年間、一度も打席に立たずに終わってしまう」と、思ってくれたのか。打ち気満々で打席に入ったが、車いすだとストライクゾーンが狭く、相手投手も「当てたらまずい」との思いもあっただろう。ストライクが入らず、フォアボールになる。
自分としては、ただ幸運な出塁。ところが、ベンチの球友が「垣内が塁に出た」と大騒ぎして、喜んでくれた。グラウンドに立つと、そのときに「自分の役割がそこにある」と感じたことが、蘇る。同じことが何度かあり、「フォアボール製造機」とも呼ばれるようになる。「車いすでもできる」から「車いすだからできる」へと、バリアバリューを最初に体感させてくれた。垣内さんがビジネスパーソンとしての『源流』とする流れの水源が、溜まり始める。
市立苗木小学校へも寄った。途中、歩道で車いすを止める。べニヤ板とアスファルトで、車いすの敵である段差を埋めた跡をみつけた。「ここです、クラスメートたちが段差をなくしてくれたのは」。小学校が市の教育委員会と協議し、通学路の改修費を確保して、みんなで作業した。そんな厚意に包まれた一方、入学式の日に他の児童から「ちび」と言われた悲しさも、忘れたことはない。母も一緒に泣いてくれながら「俊君は大丈夫よ」と言って、普通の学校へ通わせ続けてくれた。それが、いまの自分をもたらした。
四つんばいになって上下した高校の階段みていてつらくなる
悲しくつらかったことは、ほかにもある。何よりも、前号で触れた県立中津高校での教室の移動だ。エレベーターも車いす用の昇降機もないので、階段を四つんばいになって上下した。目の前に、短いスカートの女子生徒たち。目を落とし、相手も気にしないでくれたが、人にみせたくない姿だった。