そこまですれば「いらっしゃい」と向こうから声をかけてくれるはずだ。なかには、「いらっしゃい」を言わない店主もたくさんいるが、これも古本屋の場合は言わないことが愛想だとも考えられるわけで、けっして強要してはならない。どうしても「いらっしゃいませ」と言ってほしい人はファミレスかハンバーガー店へ行けばいいのだ。
ご店主のお持ちの本を
拝見にまいりました
何も卑屈になれ、と言っているのではない。ただ「おれは客だ、買ってやる」という態度では、初めから店主にケンカをうっているようなものだ、ということをいいたいのだ。
「けっして怪しいものではありません。欠点は多数ありますが、古本好きのごく、人のいい人間です。今日は、ちょっと本を拝見にまいりました。いい本が見つかったら、ぜひ買わせてもらおうと思っております」
……ちょっとそんなふうなことを口に出さず胸において、店内を巡れば、おのずと柔らかい空気が店主と自分の間を流れる。このあたりで、ほとんど勝負は決まる。
移動の際は、急激に動いたり、体を前後左右に揺すってはいけない。本棚に集中していると回りが見えないが、後ろへ下がったら、反対側の棚を見ている他の客とぶつかることはよくある。必ず前後左右を確認してから、滑るようにして移動しよう。
古本屋で気をつけねばならないことはいくつもあるが、例えば、店の中にある商品がすべて売り物であるわけではない。これがやっかいだ。
よくあるのが、本棚の前に積んである本だが、たいていは売り物ながら、たまに、未整理の本を倉庫に入れずに、そのまま床に積んであることがある。「未整理につき手を触れないでください」と、新聞チラシなどの裏に書いておいてある場合がほとんどだから心配はないが、勘定台の主人の席に近い場所に積んでいる本は、断りがなくても、手に取る場合は一言声をかけた方がいい。
それを知らずに、勝手に結わいてあった本を抜き出して、頭から怒鳴りつけられた奴がいる。これは客の方が悪いが、そやつは生まれてからあんなに大きな声で叱られたのは初めてだ、と言って店の外へ出てからベソをかいていた。お気の毒さま。
(岡崎武志:フリーライター)