障害者を隔離するために民間の力を頼るという、明治に生まれた「代用精神病院」の考え方はそのまま引き継がれ、民間の精神科病院に補助金を出す動きはいっそう強まることになる。
例えば、57(昭和32)年の「精神科特例」は、医師や看護職の配置基準を他科の病院に比べて大幅に緩和した。60(昭和35)年には医療金融公庫(現在は独立行政法人福祉医療機構)をつくり、民間の精神科病院をつくる際に超低金利で融資が受けられるようにした。それによって精神科病床は、毎年1万〜1万5千床というハイペースで増えていった。
しかし、国が精神障害者の処遇を「入院管理」へ大きく舵を切っていく中で、決定的な事件が起きる。岩尾が日本の精神医療史の転機として挙げる「ライシャワー事件」だ。
東京オリンピックが半年後に迫った64(昭和39)年3月24日、東京のアメリカ大使館前で、エドウィン・ライシャワー米駐日大使が、精神疾患だった当時19歳の少年に脚を刺されて重傷を負ったのだ。日本生まれの親日派として人気を集めた大使だっただけに、世論は大きく動揺した。
「事件は国辱だ」
「日本は文明国のリストから追放されるのでは」
事件は強制入院に拍車をかけ、その風潮は「患者狩り」と呼ばれた。
翌65(昭和40)年には精神衛生法が一部改正され、緊急を要する場合には措置入院の手続きを取らなくても医師1人の診療で強制的に入院させられる「緊急措置入院」の制度が創設された。さらに、精神疾患の疑いのある人を見つけた警察官が保健所に通報するよう義務づける制度を強化し、警察官が保護した場合に限らず、職務質問や捜査をしている時も含めて監視の目を強化した。
その結果、次々と患者が民間病院に送り込まれる。岩尾が悲しげに語った。