戦争では兵士は、圧倒的な暴力にさらされ心に深い傷を負う。写真は、東京の陸軍戸山学校で行われた、藁を巻いた仮標に斬撃を加える「仮標斬撃」訓練の様子
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 元兵士が負った心の傷は連鎖し、家族に大きな影響を与えている。戦後、日本社会で長く埋もれてきた「戦争トラウマ」は、戦後79年が経とうとする今もなお、世代を超えてつづく。家族に思いを聞いた。AERA 2024年8月5日号より。

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 24歳のとき、父が死んだ。59歳、がんだった。

「ざまーみろ」

 神奈川県横須賀市に住む市原和彦さん(72)は、心の中で叫んだ。

「やっと死んでくれた、やっといなくなってさばさばした思いでした」

 父の徳太郎さんは1916年、千葉県に生まれた。36年、20歳のときに一つ年上の母と結婚した。

 記憶の中の父はいつも母に暴力を振るっていた。毎日酒を飲んで帰り、母を殴ったり蹴ったりした。何か気に入らないことがあると「この野郎」と言って、ちゃぶ台をひっくり返した。市原さん自身も、井戸端に裸で立たされたことがあった。

 父は復員兵だった。

 結婚するとすぐに召集され、鉄道の敷設や補修などに従事する鉄道隊に所属し、旧満州やタイなど南方の戦場に行った。復員したのは、終戦からしばらくたった46年。その5年後に、市原さんは生まれた。父は町工場で旋盤工として働いた。

 父がなぜ母に暴力を振るうのかわからない。ただ、母がひっくり返ったり、おろおろしていたことを覚えている。

あれほど嫌悪した暴力を息子の自分も受け継いだ

 何より鮮明に覚えている記憶がある。8歳のとき、父が働く工場の同僚たちと千葉にバス旅行に行った。母も一緒だったが、そのバスの車内で酒に酔った父が母に殴りかかり、「この淫売女(いんばいおんな)があ!」と言って、母に酒をぶっかけた。

 母は戦後、父が戦死したと思い、父が復員するまで別の男性と生活していた。そのことが、父の頭にこびりついていたのだろう。父が母に罵声を浴びせた時、市原さんは父に「いいかげんにしろ」と怒った記憶がある。だがそれ以上に「淫売女」という言葉が、当時は意味は分からなかったが強烈に記憶に残った。それ以降、家が嫌で、早く家を出たいと思うようになった。父との会話はほとんどなく、高校卒業後は家を出て働きだした。だが人間不信に陥り、人と本音でしゃべれなかった。しかもあれほど嫌悪していた暴力を、市原さん自身が受け継いだ。

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