著者はこれを証明するために、資本主義の元祖とも言うべきアダム・スミスを召喚する。アダム・スミスと言えば、資本主義批判者からすれば自由放任主義の提唱者であり、新自由主義の生みの親とも目される経済学者だが、ここで参照されるのは経済学の教科書でかならず取り上げられる『国富論』ではなく、その前に書かれた『道徳感情論』だ。この書物から、「共感できる、共感に基づいて価値判断できるということが人間の本質である」というメッセージを著者は引き継ぐ。そして、「自分の行動は、自己利益の延長だけでなく他者に影響を与える、これが経済活動の基盤である」とアダム・スミスは理解していたと述べる。なので、市場の自己調整機能として理解されている「見えざる手」は、新自由主義に親和性の高い自由放任主義ではなく、共感の実現を表現しているものだという再解釈をおこなうのである。

企業には、最高哲学責任者・CPOの設置が必要?

 ここまでセットアップできたら、あとは「共生」や「持続可能性社会」に向かって力強く歩んで行けばいい。「持続可能性」は脱成長として捉えずに、人間にとって最も重要な価値観として考える(つまりSDGsは一過性のはやりではない)。そして、先に述べたように、資本主義はシステムではなくある種の無秩序であるから、そこから創造的破壊が生まれうると説き、AIは持続可能な未来創造のエンジンにしなければならないと注意を促し、また我々の欲望についても再構築が必要だと提言する。さらに具体的なアイデアとしては、企業に倫理部門を置き、この部門のトップには哲学者をCPO(最高哲学責任者)として据えるという斬新な構想を打ち出す。

 本書に対する僕の気持ちは賛同と疑問に裂かれている。賛同の部分は人間観についてだ。著者は、人間を、経済学者が言うような、合理的で理性的な個人としては捉えていない。マルクス・ガブリエルはこのような人間観を廃して、共生する存在こそが人間の本質だという人間観の上に、倫理資本主義を築こうとしている。そこには強く共感する。

 ただ、本書の議論から宗教がきれいに排除されているのが気になる。イスラム教徒は現在4人に1人と言われ、現在も増え続け、まもなく3人に1人になるとも言われている。資本主義の最先端を走るアメリカでは、宗教的な見地から、人工中絶が大統領選を左右する大きなイシューとなっている。ウクライナ戦争でも宗教問題がくすぶり続けている。宗教的人間に、本書の議論は通じるのだろうか。自律とは「自分はこのような人間だ」という自己認識であると著者は説明しているが、「私は神のしもべである」という自己認識を持つ人々を、徹底的に自由主義の立場に立って無視する著者の態度は、あまりにも世俗的にすぎるような気がしてならない。そして、資本主義経済とは、僕に言わせれば、貨幣と信用(信仰)によって編み上げられたある種の宗教的世界だ。

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「共感」は是か?