また、アダム・スミスの『道徳感情論』は、“神抜き”でどのような道徳を打ち立てられるだろうかという問題意識の上に書かれた書である。道徳的なふるまいは共感を求める各人の欲求から自然に導かれる、多くの共感を得るものが道徳的だと述べたアダム・スミスだって、共感に基づく行為がまちがいをもたらすことを認めている。バブル経済を生む原因は、「沸騰する共感」に一因がある。

リーマンショックの時代に「倫理」は通用したか?

 また、著者が経済活動の例として語るのは、製造業とサービス業が多いが、金融経済についても、本書の議論は当てはまるだろうか。たとえば、企業に倫理部門を置くという著者のアイデアについて考えてみよう。リーマンショックが起きる前にこの事件で破綻した投資銀行に倫理部門が据えられていたと仮定する。倫理部門のトップを務めるCPOはサブプライムローンにまつわる金融派生商品に対して「待った」をかけられただろうか。難しかっただろう、と想像する。住宅ローン担保証券などのアイデアについて、倫理部門のメンバーの経済学者らは、「問題ない」と唱えた可能性が高い。(実際、主流派経済学者や金融経済学者の第一人者たちの多くがそう言っていた)。また、やっかいなことに、これらの商品は、「裕福でない人にも家が持てるようにする画期的な商品だ」というある種の道徳性がはらんでいるようにも見える。

 ただし、僕自身はCPOという考え方そのものに異を唱えるつもりはない。万能ではないし、楽観視もできないが、国家による規制ではなく、ボトムアップされた倫理を通して世の中を改善する可能性を秘めているアイデアだとは思う。

 道徳によって資本主義をバージョンアップしなければならないという問題意識を僕は共有している。そして、この問題意識に促されて僕は小説を書いている。しかし、バージョンアップの方法は、マルクス・ガブリエルとはまったくちがう。そのちがいは、「“宗教的なるもの”と人は手を切れない」という認識に立ち、アジア的に思考しているからではないか、と考えている。

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