竹簡の文字は「秦将李信新民将蒙武以乙酉日東撃楚、其于数□(秦将李信、新民将蒙武、乙酉(いつゆう)の日を以て東のかた楚を撃ち、其れ数に于て…)」、「秦攻荊、秦将軍李信新民将蒙武濕楚、□□(秦、荊を攻め、秦将軍李信、新民将蒙武、楚に濕り…)」の二枚である。

 秦の将軍李信と新民将の蒙武が乙酉の日に東の楚を攻撃したという。末尾は断簡でわかりにくいが、『史記』から見ると敗戦したと書かれているはずである。乙酉の日に東方に出撃したことが良日の選択ではなかったというのであろう。

 さて『史記』によれば、対楚戦に失敗したのは、同世代の李信と蒙恬であり、李信と蒙武ではない。李信と蒙恬、王翦と蒙武という世代を異にした結びつきで対楚戦に対応したと理解してきたが、『閻昭』では李信と蒙武という連携があって、敗戦したことになっている。

 どちらを信じればよいのであろうか。秦の将軍たちの動きを見てみると、王氏や蒙氏の将軍一族内の連帯と、一族を超えた個々の将軍たちの世代間の連帯があったと思う。『史記』の記述を信じたい。『閻昭』は、そもそも秦の同時代の文書ではない。

 ただ、『史記』には蒙武に関して間違った記述がある。秦本紀と六国年表に、昭王二二(前二八五)年に「蒙武撃斉(蒙武斉を撃つ)」という記事がある。昭王は蒙武の父・蒙驁(もうごう)の時代であり、蒙武の登場は早すぎるので、蒙驁の間違いだとされている。そうであれば蒙驁は母国の斉を攻めたことになる。

 もし『閻昭』を信頼すれば、李信に経験ある蒙武が同行していたことになり、「若き二人の将の敗戦」という従来の見解を更新しなければならない。

《朝日新書『始皇帝の戦争と将軍たち』(鶴間和幸 著)では、李信、騰(とう)、羌瘣(きょうかい)、桓齮(かんき)、楊端和(ようたんわ)ら名将軍たちの、史実における活躍を詳述している》