ともかくも呂不韋と子楚と愛姫の邯鄲での偶然の出会いから嬴政、のちの始皇帝が誕生した。

 呂不韋は子楚と邯鄲を脱出し、妻子は遅れて咸陽に入った。呂不韋は昭王の死、安国君(孝文王)の即位と三日後の急死を経て、荘襄王元(前二四九)年に丞相に就任し、河南洛陽(らくよう)の食邑(しょくゆう)一〇万戸を与えられ文信侯と呼ばれた。ちょうど秦が三川郡を置いたときと重なる。

 秦の植民地の三川郡は、丞相(相邦)呂不韋の存在と切り離せない。呂不韋の勢力は戦国の四人の封君(ほうくん)(魏の信陵君、楚の春申君、趙の平原君、斉の孟嘗君)にも匹敵する。全国から人材を集め、食客三千人を集めたという。その人材の受け入れ口が、三川郡の雒陽であった。呂不韋は嫪毐(ろうあい)の乱に関わったとして相邦を罷免され、咸陽から雒陽に下ったが、そこでは諸侯、賓客、使者たちが道に列をなして集まったという。呂不韋のもとに集まった人々は、何を求めたのであろうか。秦王は呂不韋の復活を恐れた。呂不韋は最期はみずからの雒陽の領地で鴆酒(ちんしゅ)を飲んで自殺した。呂不韋の自殺によって、秦王は呂不韋が集めうる貴重な人材を失うことになる。

 呂不韋は韓・魏・趙の国境を自由に越えた商人としての国際感覚を持ち、それが若き秦王嬴政の相邦(政治の最高権力者)を務めていた頃の外交と戦争に活かされていた。商人として基盤を置いていた韓・魏・趙に軍事的に進出する動きは、十代の若き秦王の意志とはとうてい考えられない。始皇四(前二四三)年、趙にいる秦の質子を趙から帰国させ、趙の太子を秦から趙に帰している。外交上の一種の断交である。

 始皇五(前二四二)年に設置した占領郡の東郡は、呂不韋の故郷である濮陽の地を中心とする地域であり、呂不韋が商人として熟知していた土地であった。濮陽は黄河に面した交通上の要地であり、自立した経済力をもっていた。蒙驁将軍の魏地への侵略戦争(始皇三〜五年)を続けた結果、占領郡の東郡が置かれることになる。また濮陽は小国の衛の都であった。その君主の衛君・角を殺さずに、一族ともに野王の地に遷す政策も、呂不韋の判断であったと思われる。

朝日新書『始皇帝の戦争と将軍たち』(鶴間和幸 著)では、羌瘣(きょうかい)、蒙武、騰(とう)、桓齮(かんき)、楊端和(ようたんわ)ら名将軍たちの、史実における活躍を詳述している》

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