格下げ後に横浜研究所長へ復帰すると、終業後に所長室を開放。500円の参加費で飲み放題で自由な会話ができるようにした。後輩や部下と遠慮なく話すのが大好きだった(写真:山中蔵人)

母の実家は大工一家職人の血筋も引き道具の使い方覚える

 1953年11月に生まれ、妹が1人。当時の町名は小梅町で、近くの隅田公園の角にある区立小梅小学校へ歩いて通う。小学校を訪ねるのは中学生のとき以来で、50年を超えている。改築されていても、校庭に立てば、やはり懐かしい。

 母の実家も墨田区で、その父と弟2人は大工だった。遊びにいくと大工道具を手にして、使い方を覚えた。母からも、技術者ならぬ職人の血を引いていた。

 父は、細かいことを大事にした。家族で旅行にいくときは、自宅を出るときから帰りの電車は何時何分に乗って、こう帰ってくる、と考えていた。家族がその通りに行動しないと、機嫌が悪くなる。行き当たりばったりではなく、一つひとつを計画的に積み上げていく技術者らしさが、表れていた。

 この日は、向島へくる前に、77年4月に入社して約10年いた千葉県市原市の千葉事業所を訪ねた。父から感じ取った技術者としての誇りやこだわりに、銅の裸線工場で作業員たちから鍛えられた現場・現物・現実の「3現主義」が重なって、技術者としての道が拓いた。

 裸線工場は、2012年4月に社長になって三重県の工場へ集約し、廃止した。電話線用の銅線が、80年代後半から大容量の信号を高速で送ることができる光ファイバー網へ置き換えられて、需要が減った。でも、工場跡の建屋の入り口に、毎日のように目にした裸線工場の表札が、残っていた。

 その光ファイバー網で光信号を発信するレーザー半導体の開発を、87年3月に横浜研究所へ異動して、指揮をした。世界で最上級の実験結果が得られれば満足してしまう研究所文化を、千葉で身に付けた「3現主義」で一変させることも、任務に含まれていた。約3年で製品化に成功し、千葉事業所には、レーザー半導体を納めた発光装置を組み立てる工場を建てた。

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