ITバブルの崩壊で「敗戦処理」と降格でも所長に復活へ

 最後に横浜研究所も訪ねた。横浜市西区の横浜事業所の敷地内にあり、ここでレーザー半導体を開発し、光ファイバー網向け発光装置で世界シェアの7割を獲るまで、売り上げが右肩上がりに増え続けた。肩書もどんどん上がり、光デバイス開発部長兼光半導体部長にまでなる。その「栄光の期間」のほかに、もう一度、ここへ着任した。

 2001年、米国で光通信網への投資額が必要な量の何倍にもなっていたことが露呈し、市場は一気に縮んだ。「ITバブル」の崩壊だ。古河電工への発光装置の発注も次々に取り消され、膨らんでいた事業態勢は縮小に追い込まれる。「敗戦処理」を進めながら降格が続き、知的財産部へ異動して、部下のいないシニアマネジャーとなる。

「退職」も頭をよぎったが、将来の復活へ備えて、レーザー半導体や発光装置の技術や要員を残す手立てを打つ。日陰にいた知的財産部の改革も進め、存在価値が認められていく。そんなとき、突然、横浜研究所長の辞令が出た。会社の首脳陣が、やるべきことをきちんと進める姿を、評価してくれたらしい。

 研究所の玄関を入ると「栄光の期間」の歩みが、展示室に掲げられていた。父と過ごした日々が生んだ『源流』から流れ続ける「技術者の匂い」は、研究所長になっても消えず、社長、会長、特別顧問となっても失わない。いや、失いたくないというのが、本音だろう。(ジャーナリスト・街風隆雄)

AERA 2024年7月15日号